世間の服を着た個人

 

「たとえおれが許しても、世間様が許さない」

と、

「お天道さまが許しても、このおれが許さない」

とは、

 

言葉の意味では全く逆の意味を表していますが、

どちらも、「自分が許したくないことはどうあっても許さない」

という同じ意味を表すもののように思えます。

 

どこかで問題が起きたとして、

それが自分に全く関係がないのであれば、

かつ、その問題に対する判断が、今後世間に大きな影響を及ぼすようなものでなけいのであれば、基本的にそれは当事者の問題であって、外野が口をだすべきものではないと考えています。

 

少し前に

教師が、自分の子どもの入学式だか卒業式だかに出るために、

自分の学校の入学式だか卒業式だかを欠席したというような報道が、

世間を賑わせていましたが、あんなの別にどうだっていいじゃないかと思うわけです。

 

確かに教師として求められる振舞いや、

それだけはやっちゃいけないだろ、という行動というものはあるでしょう。

 

しかし、殊、この件に関しては教師は事前にその日に休むという届け出を出していたし、学校側だってそれを受理したから、当然の結果として教師は当日休んでいたわけです。

 

別の教師は、自分の子より自分の学校の子を優先するかもしれないし、

学校が変われば、同じ理由で休みの届け出を出したって受理すらしてくれないかもしれない。

 

それでいいのではないかと思うのです。

 

 

どうあっても自分の学校の生徒を優先するのがいい先生だという見方もできれば、

自分の子も大切にできないような教師が、人の子を指導できるのか、なんて見方もできます。学校側も、その先生には何の期待もしていなくて、どうでもいいと思っているから届け出を受理したのかもしれないし、普段から素晴らしい働きをしてくれているから、自分の子の晴れ舞台くらい見に行かせてやりたいと思って届け出を受理したのかもしれません。

 

そしてそれがどんな理由で起こったことだったとしても、当事者でない我々には関係がありません。入学式、卒業式に出る出ないが教師の質を決めるわけでもなければ、それで何か直接的に被害を受けるわけでもないからです。例え、自分が、その学校に通っている子どもの親だったとしてもです。

 

この場合、それでも批判があるとすれば、

「学校の生徒よりも、自分の子を優先するなんてのは教師がやるべきことではない」という、「たとえおれが許しても、世間様が許さない」型の批判か、

「学校は届け出を受理したというが、そんなことが許されると思っているのか」という、「お天道様が許しても、このおれが許さない」型の批判かのどちらかなのではないでしょうか。

 

気に入らないことがあれば、

何にでも、誰でも誰にでも文句が言えるご時世に、

非常に便利な論法だとは思いますが、

詰まるところそいつ自身のエゴに他ならんわけです。

 

光速で情報が行き来するこのご時世、

初めは個人のエゴからくる小さな批判に過ぎなかったものが、

「世間様」とか「◯◯はこうあるべき」みたいな一般論として、

大きく取り沙汰されることも少なからず起こっているように思えます。

 

だからと言って当事者同士で小さくごにょごにょ問題解決すればそれでいいというものばかりでないのは分かっているんですが、必要以上に大きく取り上げてしまったばかりに、かえって解決に向かう道筋がややこしくなってしまうものだってあるのではないかと思ったのでした。