めたもん前編(書き直しました)

(自分で読みなおして全然意味がわからなかったので書き直しました) 

 

多様性溢れるの世の中だから、

その多様性を受け入れることが大事だよ、なんてことをよく言う。ぼくもそう思う。

しかし多様性溢れる世の中だからこそ、その多様性を受け入れることが難しいんじゃないかという話。

 

たくさんある考え方や価値観の中で、

現時点で自分が理解できるものや、受け入れられるものは、何の問題もないかもしれない。だから多様性を受け入れるという話になれば、問題になるのは「現時点で自分が理解できない、あるいは受け入れられない考え方、価値観」の方じゃないかと思う。それにどう対処していくのか、という話だ。

 

理解できない、受け入れられない、考え方や価値観と一口に言っても色々なものがあるか。

 

じゃあ例えば公共の場で怒鳴り散らしてる人がいて、それに対して自分が気分を害したとしよう。自分が直接被害を被ったわけではないけれど、何でああやって周りにも嫌な思いをさせるような怒り方をするのだろうと、もやもやとした嫌な気持ちを抱えたとする。そこで、「あいつは周りに気を遣うほどの知能もない大馬鹿者、あるいは残念な人なのだ」と勝手に決めてしまって、それなら仕方がないなと納得して、もやもやを晴らす。

とか、どこかしらの人間関係の中で、なんとなく自分と考えの合わない奴がいて、そいつのことを「元々自分とは合わない、仲良くする必要のない人間」だと決めてしまうことで、不仲な状態をそういうものだと納得する。

とか。

 

例としてかなり極端だけれど、こんな風に

何か勝手にレッテルを貼ることで、それ以上相手の考えに踏み込むことを自分から辞めてしまう経験というのは、誰でも1度や2度はしたことがあるのではないかと思う。

 

世の中にたくさん溢れている考えの全てに、いちいち向き合っている暇はないのだし、

こうやってそれぞれの考えに何かしらのレッテルを貼って対処していくことは、生きていく上では必要な作業だ。

でもこのレッテル貼りは、多様性を受け入れていくこととはまるで逆の性質を持つ作業ではないか。

 

レッテル貼りは、能動的にこうだとこちらから決めてしまうけれど、

受け入れるというのは、相手をそのままに許容していくことだとぼくは考える。

 

わからないものを、わからないまま、何かに決めつけることをしないで

分かっていこうとする作業が、受け入れるということじゃないかと思うのだ。