めたもん後編
めたもんはあまり大したことが言いたかったわけではないのに、
妙に仰々しく書き始めてしまったが故に、自分でも引込みがつかなくなってしまってました。
難しく書こうとしないで、垂れ流しリハビリから始めていこうと思います。
読みにくい文章ですいません。
生きてく上で、
受け入れるものと、そうじゃないものを取捨選択していく作業は、
自分と他者との違い、そこからくる感情のあれこれを軽減する意味では必ず必要になってくるものだと思います。
でも、これが行き過ぎると、自分の外にある特定の考え方に対して全く閉じた人間になってしまうこともありえるんじゃないかなって。
前編に書いたみたいな、「これは阿呆の考えだ」(から取るに足らん)みたいな対処を、条件反射的に行ってしまってはいなかなと。
自分は意識をしていないと、そんな風に考えてしまうことがあります。
そこで捨ててしまうものの中には、
もしかすると自分が普段受容している考え方より、よっぽどためになるものだってあるかもしれないのになと思って。
ここは過疎ブログなのであれですけど、
ちょっと有名な人なんかが何かを言うと、それだけで賛否両論いろいろ意見をもらって、果たして自分の考えてることが正しいのか、間違ってるのか…。
なんて悩んだりってこともある世の中ですし。
そういう意味では、自分の考えをある程度正しいものだと信じて生きていくためにも、外に対してある程度閉じるというのは必要な対処なのだと思います。
自分が間違ってるんじゃないかと常に思い悩みながら生きる人生なんか、まっぴらですから。
多様性の世では、
世界中に数えきれないほどの正しさがあって、
自分の正しさを守って生きていくためには、外に対してある程度閉じて生きていくのもしょうがないんじゃないかなあってことが書きたかったのでした。
でも、たまには普段は敬遠してる特定の考え方にも、
触れて、また考えてみるのもいいんじゃないかなあと。
そうすると、もっと自分の人間の幅ってのも広がりそうじゃないですか。
そんなこと、ないかなあ。