コミュ障なんてないさ
人あるいは集団、組織のようなものには、営まれてきた歴史があって、その中にはコミュニケーションの形式というものも含まれているのではないかという、話なのです。
コミュニケーション障害、略してコミュ障という言葉がありますが、上記のことを考慮にいれるのであれば、コミュ障というのは、個人がこじらせる絶対的な病(?)ではないということです。
それは例えるならば特定の鍵穴には特定の鍵しか対応していないというような話に似ているのであって、ある個人、またはある集団、組織においてコミュ障だと認定された人が、別の場所では普通にコミュニケーションをとってうまくやっていけるなんてことは、往々にしてあります。
シリアスな話はできるだけしないで、軽いノリだけで話がしたい人。
あるいは話題がぽんぽん切り替わるような、ハイスピードな会話を楽しみたい人。
落ち着いて、ひとつの話を掘り下げていきたい人。
それとて一意に定まっているわけではなく、時と場合によって変化させていくようなものではありますが、個人によって持っているコミュニケーションの形式というものは、千差万別であります。
初対面の相手との会話がぎこちなくなるのは、相手がどういうコミュニケーション形式を好む人なのかを探り探りせねばならないからです。
親しくなってくると、お互いの持つ形式の妥協点というか、気持ちの良いところで落ち着いて話ができるのでしょうが、その落とし所を見つけるのが、最初は難しいわけです。
コミュ障という言葉は、
ふたつ以上のコミュニケーション形式がぶつかった時に、どちらかがどちらかに歩み寄ることを断念した時に生じる言葉ではないでしょうか。
郷に入りても郷に従う気のないやつは出て行け、とか郷に入ったはいいけど従うのは無理そうだとか、そういう時にコミュ障という言葉が出てくるのであって、入る郷によっては、その人はコミュ障でもなんでもなくなるのではないか、と思います。
しかしまあ、コミュニケーションの仕方というのはぼくにとってみれば生き方そのものみたいなところがあって、この歳になると結構なこだわりもあるわけです。
目の前にいる人と、ちゃんと会話する気があるかって、ただそれだけなんですけど、そこが蔑ろな人とは、いくら波長があったとしても、コミュニケーションの形式の落とし所を見つけてまで仲良くしようなんて気は、全く起こらなくなってしまうもんです。
閉じた人間関係を形成している人に、かつてはもったいないと感じてましたが、フルオープンならそれでいいというわけでもなく、逆に適度に閉じているからこそ、オープンでいられるということもあるのではないかと、最近は思います。
合わせられないものに、無理に合わせる必要はないんじゃない。