犠牲の犠牲
どんなものにもいい面と悪い面とがあって、
それは資本主義にもあてはまることです。
ぼくの思う資本主義のもついい面は、
そこに内包される人々が、自分の思う分野でそれぞれに価値を生み出していれば、
それで個々人の生活が充分に回っていくところです。
人々は衣食住を避けては生きていくことができませんが、
自分でその着るものを、食べるものを、住むところを生み出さずとも、
例えば会社に勤めていたって、芸術家をしていたって、学校の先生をしていたって、政治家をしていたって、そこで何かしらの価値、言ってしまえば金銭を生み出していれば、それで生活必需品は購入できます。
生活が回るってそういうことです。
人々は必ずしも同じ方向を向いていなくてもよくて、
でもそれぞれがそれぞれに頑張っていれば、全体としては成長していくと、
それがいいところだと思っています。
だと思ってたんですが、
この「必ずしも同じ方向を向いていなくてもよい」ことの弊害もあるなーって。
例えば、
一人暮らしの身としては、どこでもドアの早急な発明が望まれるのですが、
仮に技術的にそれが可能になったとして、それが一般の人の手に渡るほどに普及するかと言うと怪しいだろうなと。
どこでもドアが一家に一台ある時代が到来しようもんなら、
飛行機、バス、タクシー、電車、車、交通に関わるあらゆる産業が滅びますからね。
こんな風にそれぞれが違う方向にどんどん進んで行くと、
どこかが、別のところを脅かすような発明をしてしまうことは可能性として充分にありえます。
その発明がどんなに素晴らしいものでも、どこか別の領域を著しく侵犯するものであれば、世に出てこないことだってあるでしょう。
侵犯される領域が、大きい物であればあるほど、その可能性は大きくなります。
ゴキブリをこの世から消し去ることだってできるが、
それをしてしまうと殺虫剤が売れなくなってしまうから、実行には移さないのだみたいな都市伝説も聞いたことがあります。
それってなんだかもったいないなあと。
ゴキブリは生態系にも関わる問題ですから、人間の都合で滅ぼすのは間違っていると思いますが、どこでもドアなんかはね。
これが初めから目指すべきもの、向いている方向が揃っていれば、
領域侵犯みたいなものを気にする必要はないのでしょうけど。
その場合はその場合で、
目指すべきもの、その方向以外のものは無価値であると排除されてしまうでしょうから、いずれの方向を採るにせよ、何かしらは犠牲になってしまうのでしょう。
その犠牲が少ないのは、
資本主義の方なのかなあと思ったりはします。
実際は、どうなのでしょう。
はー、どこでもドアができたなら、
誰にも言わないから、ぼくには売ってくれないかなあ。