価値を認めるのはむずかしい

 

100均のコンパスだと、上手く円が描けないらしい。

コンパスの2本の脚の接合部、つまり股の部分がゆるゆるなので、

うまく脚の開いた角度が維持できず、書いている内にどんどん脚が開いていってしまうのが原因なのだとか。

 

コンパスなんて日常的に使うものではないし、

学校の授業で使うのもほんの一時のことだから、

親としてはできることなら安く済ませたくて、子に100円均一のコンパスを買い与えるのだろう。

 

コンパスを必要とする授業は、

それを使って三角形の五心を見つけたり、中心を同じくした円がいくらでも書けることを発見したりすることが目的なので、初歩の初歩である円を描くという作業のところで転けていては困るのだそうだ。

 

そりゃそうだわなあと思った。

そして次に、100円均一でコンパスって買えるんだーと思った。

買い与える側の親にはその価値をあまり認めてもらえず安く買われ、

安物であるが故にその機能を充分に果たせず実際の使用者の子どもには役立たず扱いをされ、最終的には使い捨てにされるコンパスが不憫だなあと思った。

 

最後にはどうなってよいからって、そのモノを、

最初からどうとでもないモノとして扱うのは間違っているとぼくは思う。

何を食べても最終的にはうんこになるんだから、

食事はカツ丼だろうが道端の草だろうが一緒だという考え方には反対なのだ。

コンパスの、特定の知識を学ぶために必要な機能が詰まっていることを元にコンパスを評価するべきであって、最終的に使わなくなることを元にコンパスの価値を決めてかかって、100円均一産のものを子に買い与えるのは、何だか寂しい話じゃないですか。

高いものを買えって訳じゃないですけど、せめてコンパスの本来の仕事がきちんと果たせるものを、子どもには買ってあげるべきなんじゃあないかと。それがコンパスの価値を認めるということなんじゃないかと思うのです。

 

ブログやTwitter等の炎上に代表される、

過剰に批判し、徹底的に叩くみたいな風潮も

叩く側の人にとって、叩かれる側の人間というのは最終的にはどうなってもよい(≒無価値)と考えているからできることなんだろうなと思ったり。

 

物を買うことも、

コミュニケーションも、

随分とお手軽なもんですから、そのままその価値もお手軽なもんだと勘違いしてしまうのでしょう。

 

もしかすると、自分では何気なく言ったそのヒトコトが、誰かの人生を左右するほどの力を持っているかもしれないのに、です。