言葉と社会と (7月27日:追記)
小学校の中学年くらいからネットに触れ始めて、
テキストサイトに始まる個人サイトや、掲示板、
ブログ、そこからmixi、TwitterなどのSNS、まとめサイトなんかを
追っかけてきましたが、昔はそんなに見なかった、「〇〇だな」みたいな「な」で言い終わる表現ってのをここ最近よく目にするような気がします。「このケーキ美味しすぎるな」とか。あ、そうですね〇〇すぎるという表現とよく併用されているという印象もあります。
しっかり追っかけてるわけじゃもちろんないので、感覚的な話になるんですが、2012年のどっかから現在にかけてそういう表現が増えてきたような、違うような。
何か物を考えたり発信したりする以上、その媒介となるものが必要で、
それが言葉にあたるわけで、人の心は読むことはできないとは言え、そこに出てきた言葉が思考の結果なので、言葉を見ればある程度心中の推測が立つと、ぼくは思っています。
この「〇〇すぎるな」に代表される「な」言い切り系は、
もはや独白です。特に他者からの感想を求めるでもなく、ただ言いたいから言っているような、そんな感じ。外に発信しているのに内に閉じている。
独白であり、文自体は非常に短いものになるので、Twitterとの親和性が高いようで、そこでよく見かけます。
大袈裟に言えば、共感を欲することなく、個人が個人で閉じてしまっているような印象を、ぼくはこの表現から受けます。
(追記)ソーシャルメディアは人との繋がりを求めてやるもんだと思うのですが、そういう場でこうした閉じた発言がされることに、大きな意味があると思うんですわなあ。
SNSなんかの言葉の発信は、なんだったら一番素に近い状態でやっていると思うので、そこで使われている言葉や表現を追っていくことで、ブルーマーでいうところの外界世界の「意味」みたいなもんが追ってけるんじゃないかなあと思いました。人々がどういう風に物を考えるようになっていて、それがどう社会に影響するかみたいなもんが、もしかしたら予測できるかもしれないなあなんて思っているのです。
このブログを始めて、今日で一年になるようです。
記事自体は365を超えています。
元はと言えば話し相手を失ったことで、その気を紛らわそうと思って始めたのがきっかけだったんですが、こんだけ続けられるとは思ってませんでした。
一年経って今再び、一年前と同じ理由で1人で頑張らなければならないフェーズにきているのですが、一年前のうねうねしていた自分とは違って、今はサニーレタスのようにしゃっきりしています。頑張ります。
テスト期間でなければもうちょっと思い出にひたりびたりしてもいいんですが、それをしてもしょうがないということもあって今日はこんなところで。
明日はテスト終わった後、浅草にうなぎを食べに行って、
隅田川の花火大会になだれ込んでくる有象無象に押しつぶされる前に、家に帰ります。