最後を渡り歩く人

 

昔の会社というのは、

事業を行う期間が2ヶ月なら2ヶ月、5年なら5年と決まっていて、

それだから会計というのは、その事業が全て終わった時点でやればいいものであったようです。

 

株式投資は必ず勝てる投資ではないと言います。

それもそのはず。今の会計は、

ずっと続いていく企業の、現在の価値をどうにかこうにか客観的な貨幣価値に置き換えようとする作業で、そんなずっと続いている物の、ずっと変化しているものの、ある時点での評価を出すものに過ぎないわけです。

変化の中で、良いものは悪くなり、悪いものは良くなって、またそこから良くなったり、悪くなったり、あるいはなくなってしまったりします。

どう動く変わらないものの、刹那的な評価を元にする株式投資が安定しないのも、だから当然でしょう。変わっていくものが、どうなっていくかなんて、誰にもわからないのですから。

 

 

だから、

物事を本当に評価するためには、

それが「終わって」いなければならない。

と、ぼくは思います。

それ以上変化の余地がない状態でなければならないと、言い換えてもいい。

 

ぼくは自分の大学生活は、概ね良いものだったと思っていますが、

もしかするとこれから何か最悪が訪れて、卒業する頃には大学になんか入らなければよかったと思うようになっている可能性だって、零ではありません。

まだ、ぼくの大学生活は終わっていない。

 

終わっていないものには、とりあえずの、一時的な判断を下す他ありません。

でも、終わろうとしているものに対しては、どうでしょうか。

 

明日から、ぼくは鈍行でのんびり帰省します。

ぼくが夏に、ゆっくり実家に帰ることができるのは、これが最後になるでしょう。

少なくとも、東京から鈍行で帰るのは本当にこれが最後になると思います。

 

終わりが見えているものに関しては、

その評価を良くするための努力が、できそうな気がするんです。

もうこの先がないのだから。これで最後なのだから。

その最後を、少し頑張ることくらいなら、できると思うのです。

 

今からくそつまらんことを言いますが、

もしかすると人生ってのはそいう最後の積み重ねかもしれんと、思ったわけです。

これしかない、ここしかないと思って、少し頑張ることの、積み重ね。

 

なかなか、そんな風に思える瞬間を人生で感じることは少ないですが。

 

少なくとも明日からの旅は、そんなつもりでやっていこうと思います。

 

一人旅には慣れっこなんですが、

移動の長い旅なので、道中で見たり聞いたりしたあれやこれやを話すことのできる伴侶がいると、尚良いのだけどな、と思ったりもしますが。

 

そのあれやこれやは、ここに書いていくことにします。