暴力は最適解ではない

つい先日日記を書き忘れたばかりにも関わらず、
日記を書き忘れて、物を壊したり、壁に頭を打ち付けたりしている夢を見ました。
クレイジーすぎてひきました。


物に当たるのって、しょうもないことだとずーっと思っていたので、
たとえ夢の中だったとしても、自分がそれを実践してしまったのは後悔の森です。

花瓶とか割ってたんですけど、確かにやってる間は結構すっきりするんですよ。
でも物壊しても何の解決にもならないし、冷静になったあとに面倒ごとを要素を増やすだけなので、
絶対現実ではやらねーぞと思いました。


とは言え短いスパンで日記を書き忘れたことによる、自分への失望感だけで、
そういう頭でごちゃごちゃ考えて出した結論をすっ飛ばして花瓶投げてるわけですから、
なんだかなあという感じです。


物に当たるのが嫌なのは、それが単に合理的でないからという理由以外に、
何かを壊すとか、投げるとか、そういう暴力によって快楽(のようなもの)を得たくないから、というのもあります。


物に当たって、それですっきりするってのは、
何の意味があるわけではないけど、暴力ふるうとなんかすっきりするというのと同じなのであって、
そこでの暴力って、一種の問題解決手段として正当化されてしまってると思うのです。


暴力事件や殺人事件の加害者の中には、なんの混じりっけもなく、ただただ自分のストレス解消だとか、退屈しのぎだとか、楽しみのために、一切の迷いなく暴力という手段をとる人がいるでしょう。


物に当たるのと、暴力沙汰、殺人を同列には語るのはやりすぎかもしれんですけど、
自分本位に暴力を振るうってとこで、ぼくの中では似たようなもんで、そうはなりたくないなあと思うのでした。


圧倒的な暴力って、どんな問題でも解決しうるし、それじゃあレベルを上げて物理で殴るようなもんで、そこには何の面白みもないと思うのですよ。

問題をどう乗り越えようって考えてる時にこそ、その人の真価が一番試されるんですから。