日和見の相対主義者
生きていくということは、
無数の選択肢の中から何かを選び取る、あるいは捨ててゆくことの連続です。
例えばケーキがとても好きな人がいます。
選択したという意識はないでしょうが、可能性として、その人はケーキを嫌いになることだってできたはずです。
そんでもって、そのケーキ好きの人が、ケーキが嫌いだという人に出会う。
えー! そんなのおかしいよ! ケーキって美味しくて美味しくて美味しいじゃん!
ケーキ嫌いなんてありえないんですけど!
というのが絶対主義。
あー。
まあ私は好きだけど甘いの苦手ーとかクリーム苦手とかあるもんねえ。ケーキ嫌いなんてもったいないって思っちゃうけど、私も和菓子は嫌いだしなあ。
というのが相対主義。
書き方が極端でずるいですけど、
なんとなく、相手の立場にも理解を示す相対主義の方がいい感じに見えますが、これが行き過ぎると、かえって良くない。
というのも、相対主義を突き詰めていくと、”選択をせずに済んでしまう”からです。
物事の善悪や、可、不可の判断を、しないで済む。
これには確かにこんな良いところがあるけれど、でも同じくらいこんな悪いところがあるよね。
とか、
ここだけ見れば実現可能性は高いけれど、こういうことも考慮に入れるとかなり厳しいような気もするんだよね。
とか。
選択するというリスクを避けて、選択肢を並べて吟味するだけの人に、なることができてしまう。
そういう人は、例えば
いじめを機に自殺してした人に、いじめられた側にも何か非があったのだろうとか、物を盗まれた人に、防犯意識が低いから泥棒につけこまれるのだなんてことを、被害者と加害者の立場を同列に相対化して、平気で口にします。
ひとつの選択にとらわれず、選択肢全体を俯瞰して考えたり、物を言ったりするのはかっこいいです。
しかし、やろうと思えば何にでも適用できるからって、何でもかんでも相対化して、評論家然としているのは、全くかっこよくないと、ぼくは思うのです。
世の中には白黒つけられないこともそりゃたくさんありますけど、人殺したりとか、物盗んだりとかは、被害者側に落ち度があったとしても、加害者が悪くないことにはならないでしょうに。
行き過ぎた相対主義者のたちの悪いのは、そうした発言を自分の主義主張のしてやるわけではないところです。
あくまで”そういう可能性もあった”とか、”こうでなければそうはならなかったのではないか”みたいな他の選択肢の可能性について述べているだけ。
そこに何の意味がありましょう。
相対化は、
自分の責任で選び取った選択によって、周りの人を無闇に傷つけたり、迷惑をかけたりしないようにという、思いやりの心からやるべきであって、 自分の知識や見識をひけらかすためにやるもんでは決してないと、ぼくは思います。
何となく世論に逆らってみるとか、ふわふわとしたいわれのない、無秩序な相対主義者を見るたびに心配になります。
自分のスタンスも決めないで論じることに、意味なんかありゃーしないのに。