夢と現実とごはん
寝ても覚めても体調の悪いのがおさまらないので、こりゃ湯あたりではなく食ったもんがあたったか、人混みで何かうつされたかなのだろうなあと落ち込んでおります。
昨日も書いたんですが、
これに行ってきました。
北は北海道から南は沖縄まで、あらゆる料理、飲み物、名産品を取り揃えた面白いお祭りでした。
いろいろつまみぐいしましたが、長崎の角煮まんが一番美味しかったです。
あと青森の田子町(たっこちょうと読む)の、ガーリックプレッツェルが、おつまみに最高でした。
田子町のたっこちゃんもかわいかった。
カメラを向けると、その見た目からは想像もつかない機敏さでこちらを向いてくれて、ピースまでしてくれました。
いつもなら料理の量が少ないことにぶーぶー文句を垂れるぼくですが、こういうありとあらゆるものが一堂にかいした場だと、ひとつの量を食べるよりも、いろんなものを少しずつ食べる方が面白いので、今回ばかりは少なめでよかったなあと思いました。
丼ぶりが丼ではありえない薄さの器に入っていたのも許せます。
ぼく自身、関東に住み始めてから初めて聞くイベントだったので、どんなもんなあと思って行ったんですけど、思ったよりも来客数も、出店屋台も多くて、しっかりお祭り感がでていたのもよかったです。お祭りで出費額を気にしたら負けなのです。
ところで、
このふるさと祭に出かける前に、友達が二重に明晰夢を見ていたので、一回目が覚めた時にまだそこが夢の中だということに気がつかなかったのだ、なんて話をしていて、そんなに明確に夢と現実の区別がつかないことがあるんだなと思いました。
ぼくはその話を聞いている時、確かに今が現実だと確信していたけれど、その友達からすればぼくが現実だと思っている階層を、未だ夢の中であるかもしれない可能性を捨てきれないわけで、
胡蝶の夢ではないですけど、現実と夢との区別は、随分と曖昧なものになるのではないかと思ったのでした。
リアリティに現実の証明を求めたところで、いかにもリアリティのある夢を見ることだってありますしね。
世界それそのものが曖昧なのだとしたら、そこにある自分という存在も、随分と危ういもののように思えます。
我思う故に我ありと、デカルトは言いましたけどあれは、何が夢で、何が現実かわからない世界で、何を自分の拠り所とするかを述べたものなのではないかなと、勝手に想像したりします。
自分が何を拠り所として、世界を渡ってゆくのかを考えた時に、彼にとってそれは考えることだったのではないかと。
ぼくは美味しいものが食べられるなら、そこが夢でも現実でもいいやなんて思って例の祭にいきましたが、そこで体調崩してたんじゃあ、世話ないですね。
お土産に角煮まんの角煮のそぼろと、柴漬けを買ってきたので、体調がよくなったら、これでもりもりご飯を食べようと思います。