低下層の住人



世間には黙っていても人に好かれる人がいて、そんな人が心底羨ましいと思っていた時期があった。

自分が言葉を発すると、空気が少し澱むようなあの感覚を、きっと彼らは一生知らずに過ごすのだろう。


コミュニティが変わる度に思うことだけれど、ぼくは嫌われやすいのだ。
特に対多数のコミュニケーションを強いられる時には。


嫌われやすいというか、
人が集まると自然にできるヒエラルキーの中で、これまた自然にヒエラルキーの下層に位置する者として、周りから見られるというのが、正しい表現かもしれない。



好きな人いるの? と聞かれた時に、
とりあえずこの人だと答えておけばごまかせるような”正解”の男の子や女の子というのがいると思うのだけれど、そういう人とは全く逆の概念を想定してもらえれば、それがそのままぼくだ。


間違ってもかっこよくはないし、好きなんて言おうものなら女子全体から総スカンを食らうような。

そういう審判というのは、直接言葉にされずとも周囲には伝わるもので、男にもなんとなく腫れ物を触るように扱われることになる。


父の仕事の都合で転校が多かったし、
今まで進学等で環境が変わる度に似たような経験をしてきて、ぼくは狭く狭くコミュニケーションをとって、一人一人の誤解を解き、徐々に集団からの評価を改めてもらうことを学んだ。

生きるためには居場所が必要なのだ。
認めてくれる人が一人でもいるなら、自分はその集団に属すことができる。


さすがにこの歳になってくると、昔のように皆から好かれたいというような欲求は薄れてきて、気に入ってもらえる奴に気に入ってもらえればいいやと思うようにはなった。

しかし新しい環境でいつものパターンにはまっている今、何故毎度毎度こんな風になるのかを考えてみて、その理由がわかってしまった時には、さすがに悲しいと思わざるを得なかったのである。


私の敬愛する人が、これと似たような話をしていて、それによって日記に思わずこぼすほどにまで悲しみが増長されたのだ。

ただただ悲しいと思っていたけれど、
こんなぼくとも仲良くしてくれている人はいるわけで、そうした人たちのありがたさを改めて実感する、いい機会にもなったのだった。


今現在そんなに前向きな気持ちでは決してないけれど、そういう教訓を得たところでこの日記は終わる。