社会人


一般に学生の身分を捨てて、何がしかの手段で持って金銭を稼ぎ、生計を立てている人のことを「社会人」と呼ぶけれど、これにはどうも違和感がある。


おそらく社会人が社会人と呼ばれる一番大きな所以は、社会に大きな影響を与える経済に密接に関わるようになることだと思われる。

学生の身分を捨てて"何某かの手段で"金銭を稼ぎ、生計を立てている人のこと、を社会人と呼ぶと書いたが、多くの場合、その手段とは企業活動に従事することである。

経済の主体は政府、家計、企業の3つに大別され、多くの一般人の関わることのできるものとして、一番多くの金銭が回しているのが企業となる。


会社に入ったことを皮切りに、社会人への第一歩を踏み出すと言われたりすることを考えても、世間に流布する社会人という言葉は、正確には経済人と表現した方が、しっくりくる。


社会はもっと広い言葉だ。

社会に関わる人を社会人だと呼ぶのだとすれば、生を受けた人間に社会人でない人はいない。

一人では生きていけないから、
直接的であれ間接的であれ、互いに助け合うシステムが社会なのだ。経済はそのシステムの一部に過ぎない。

この世に生を受けてしまった以上、社会人でない人間はいないと思っていい。

であるから、改めて人を社会人という名で以って称するというのは、食べるための食べ物だとか、音を聴くためのオーディオみたいな、当然そのために存在しているものを、わざわざもう一度説明するようなもののように、思える。


個々人はそれぞれが歌に歌われなくとも、世界にただ一人のオンリー1であるとぼくは思っているけれど、それと同じくらい、誰もが等しく社会の構成要素であるとも思っているので、あんまり社会人らしからぬ、あまりにも個人の欲求を満たすことにのみ躍起になっている人、頑張っている人を不当にこきおろそうとしている人なんかを見ると、得も言われぬ悲しい気持ちになる。