手の届く範囲は自分が決める


人はそれぞれ自分の身の丈にあった幸せ、不幸、物の考え方を身につけるもので、そうした差異というのは頭で理解することはできても、理解以上の何かを求めようとすると途端に難しくなる気がする。


理解以上の何か、というのを具体的に定義していないが、それを仮に相手を助けることだとして、理解がその次の行動につながるケースというのはどの程度あるものなのだろうか。皆自分のことでいっぱいいっぱいなのではないかと思う。

己の考えうる範囲で、己の実現し得る幸せを、精一杯体現することが、一人の人間にできる全てなのではないか。己の幸せに影響しない他人に割けるリソースはまるでない。
せいぜい可哀想にと同情を投げかける程度だ。

同情するなら金をくれとはよく言ったもので、本当に助けを欲している人にとって共感や同情はそれこそなんの役にも立たないのである。


似たような境遇にいるとか、同じようなバックグラウンドを持った人間の層みたいなとのがあって、異なる層に属す人同士では共感、理解し得ないのではないかみたいなところから考え始めたんですが、困った時に本当に必要なものは互いの立場の理解ではなく、具体的な行動なのではないかと考えたとき、個人にそれが可能なのかと思ったのでした。

無理だから共同体を作ってということなんでしょうけど、共同体の安全網の目を抜けてしまう個も当然いるわけで、どうにかならんもんかと逡巡する日々です。

やろうと思えばできることを、簡単にやると決断できないこともありますよね。