多面体との接し方


日記書きたいから家に来るのは勘弁してくれと言ったのだけど、今友達がふたり家に来ている。

スプラトゥーンをやりにきている。

おれたちはゲームやってるから、日記は横で書けばいいというのが彼らの理屈だけど、無茶な話だ。何を書くか静かに考えたかったし、書く段になればそれなりに集中力がいる。


思い出す。
ぼくは父がゲームをするので、幼い頃から家にゲーム機がたくさんあった。
加えて特にゲームのプレイに時間制限もなかったので、小学生の時分、ぼくの家はゲーム天国だった。


から、家に友達を呼ぶのが嫌いになった。

ぼくの家に遊びに来る人は、ぼくと遊びにきてるのではなく、ゲームを遊びにきてるのだ。
それが嫌だったのだ。ゲームがあれば、ぼくの家でなくても彼らは良かったのだろうから。


まあまあ。
今の状況はそれとはまた違うので、いいんですけどね。


今も昔も、自分のことがないがしろにされるのをとことん嫌う性質です。

人にされて嫌なことを、自分もしないでおくのは難しい。

とりとめもなく展開してゆきますが、
コミュニケーションをとるにおいて、
相手と自分は100:100でぶつかっているというよりは、サイコロで言えば特定の面だけを見せている状態だとぼくは思います。

ほんとは1から6までとりうるものを、3の目が刻まれた側面だけを見て判断するしかない。

見えてる側面だけで考えるなら正しく見える接し方でも、自分には見えていない相手の側面がそれを嫌だと感じるかもしれない。

日頃人と接する時にそこまで深く考えてコミュニケーションなんかとらんですが、相手の見えてるとこだけを尊重しても、もしかしたら不足があるかもしれんということです。

特定の側面だけに特化したコミュニケーションというのは、相手からしたら自分の一機能だけをクローズアップされて接されてるのと同じことですから、この人は自分のことを知ろうとしてないだとか、この側面にだけ惹かれてるんだわとか思われてもしゃーないのかなと思うわけです。


なにも考えずに流れるがままに書くとこういうことになります。いつもは消すんですけど、時間もないので投下しておきます。

早く梅雨が明けぬかなと思いつつ、おやすみなさい。今日書くはずだった二本は、明日の午前と午後で消化いたします。