逡巡と回顧


東日本大震災を経験して、その大きな災害を通じて見たこと、感じたことを語る、語り部として活動する女の子の話を聞いた。

震災当時福岡にいて、地震はおろかその後の節電にすら縁がない環境で生活をしていたぼくにとっては、本当に体験した人の話であっても実感のわかないものだった。

それでも彼女の口から訥々と語られる地震が起きた瞬間のこと、家族のこと、その日見た景色、友達との別れ、希望と、絶望の話は、どこか目と、耳を背けられない力があって、気がついたらあっという間に2時間が過ぎていた。

彼女は震災の時に、恩師を亡くしたと言った。
震災が起こった日の翌日に控えていた卒業式の日に、感謝を告げるはずだったのだったのだそうだ。

彼女の活動の原点は、そこにあるらしい。
ありがとうと大好きを、伝えたい相手に伝えられなかったこと。


ここからは自分の話になってしまうが、
ぼくも恩師を2年前に亡くした。

と言っても、これは伝え聞いた話で、直接確かめた訳ではないので、正直未だに信じてはいない。

そして、確かめようともしていなかった。
そうと知らなければ、まだぼくの中で先生は生きていることになるからだ。

彼女に彼女の恩師の墓参りはしているのか、聞いてみた。彼女の恩師の出身は、彼女の暮らすところからはかなり離れたところにあるので、お墓の場所はわからないし、行ったこともないと言っていた。恩師の家があったところには何度も足を運んだけれど、それも復興が進むうちに、できなくなるだろうとのことだった。

墓参りなんかしたくねえなと思っていた。向き合った瞬間から色褪せていくような気がするからだ。生きた思い出のままとっておけば、美化されることはあっても消えてゆくことはない。
そう思っていたけど、墓参りすらできない人もいるのだと知ってしまった。

行った方がいいとも言われた。
そうなんだろうなと思った。

そうなんだろうけど、
そうなんだろうけど、な。