何かを書くということ

 

結局のところ書くことがないから書けないのだと思っていました。

 

でも本当はそうじゃなくて、書いてまで人に伝えたいようなことが、単に自分の中になくなってしまったということなのだとわかりました。

 

生きていれば嬉しいことも嫌なことも、それは人並みにあるけれど、それはこれから先どこかで人生を振り返った時に、到底思い出しようもないほど些末なことなのです。

 

歳を取ると時間が経つのがあっちゅー間に感じることにもジャネーの法則という名前がついていますが、きっとそうなってしまうのは、振り返った時に"くちゃっとなる時間"が、大人になればなるほど増えるからなのだと思います。

 

人生の壺の中に、塵芥ばかりがつまっているんじゃあしょうがないので、その中に少しでもいいからキラキラした何かをちゃんとしまっておきたいなと感じます。

 

今日は大学時代の先輩が、母校の大学のライブに出演するということでそれを見に行ってきました。

 

ぼくたちが入った頃にはまだぴよぴよとしていたサークルも、人が増え、組織化され、なんだかとてもちゃんとしていました。

 

何人か卒業生も見にきていて、話してみるとそれぞれに社会に出て何かをしているみたいでした。(当たり前だけど)

 

ぼくは社会人になってからというもの、もうかれこれ数年経つにも関わらず、後輩というものができたことがないので、 先輩! みたいなのは学生の頃の文化になってしまっていて、そういうのも含めて懐かしい気持ちです。

 

既に自分が去ったものが、立派に自律しているというのはとても奇妙な感覚になる一方で、

先輩や後輩との関係性のような変わらないものがあることの心地よさが、今日、書いて残して置きたかったことなのでした。

 

 

心の食指が動けば、歩きながらでも1000文字近い文章が書けることがわかったので、こうして書いて残したいと思えることに多く触れたいなあと思います。

 

そう考えると大学時代はすごかったな?

 

この街の名は

 

頑張らなきゃと言った。

大丈夫、きっと頑張れてるよと言う。

 

多分そんなことない。

 

でもどうせ頑張るなら、頑張らなきゃじゃなくて、

頑張りたいって思えるといいねと続く。

 

忙しさに身を任せていると、自分の知る自分がどこかに行ってしまうようで、やりたかったことも、楽しかったことも、一緒に流れていって、日々虚無虚無タイムを過ごす羽目になっていたのだけれど、

そんな感じで少し感情が戻ってきまして。

 

何やらおセンチな気持ちになってこうして筆を取る次第。

 

ぼくが頭ではなく感情で物を書く人間だとするなら、大学時代はよっぽどいろんなことを感じて生きてたんだなあと思う。

 

書く頻度もめっきり減ってきてしまったけれど、

世に対して不感症に生きたくはないから頑張るぞというお気持ち。

 

 

今宵のお供はきのこ帝国の東京。

 

さらば青春の光

 

このブログを始めたのが2013年なので、

かれこれ四年が経つのだけれど、

ここを書き始めた時と同じ気持ちで、今日は筆を取るのである。

 

ただ四年前に比べると、気持ちとしては単純明快で、立つ鳥跡を濁さずという具合なのである。

 

2017年以前の私に決別を告げる時が来、

また新たなる気持ちで2018年を迎える所存である。

 

ただ今日だけは少し眠れないような気分ではある。

 

タイトルに芸人は関係ない

 

 

考えの整理2

(下書きの投下part3 2014929)

・できるだけ安いコストで

最大限のパフォーマンスを得る、とか

古くなったらより効用の高い新しいものに買い換える、とか

 

そういう消費にまつわる考え方を、

買い物以外のところにもがんがん適用していく生き方に、

疑問を持っています。教育とか、友人関係とか。

 

 

・最近一番共感したのは、

「あいつ間違ったこと言ってるけど、良い奴なんだよなーより、

 あいつ嫌なやつだけど、言ってることは正しいんだよなが尊重さ

 れる世の中にならねばならん」みたいな旨の言葉でした。

今の出る杭をガンガン打っていくこの感じ、頑張っている人は、頑頑張り続けていないとこき下ろされるこの感じ、そっと見守られて、少しの応援があれば出るはずだった芽も出なくなるだろうし、頑張ることの意義が見いだせなくなりそうで、こんな社会じゃ才能は育たんよなあと。

 

富樫が休載した時はみんな、はいはいまたね、元気になったらまた面白いの描いてねって感じでスルーするんだから、もうちょっと何かやろうって人に寛容でもいいのになあと思う。

 

 

 

人間関係のバイオリズム

2016年の1月の4日に書いた下書きを今になって投下。
 
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部屋の間取りを変えようと思ったときに、
要らないものは捨ててしまうのと同じで、
ぼくは自分を変えようと思ったときに、人間関係を整理します。
 
先の例が悪かったですが、人間関係を整理するというのは具体的には付き合いの頻度とか、連絡の頻度とか、そういうのを変えることです。
 
そもそもはぼく自身の許容量の問題で、
自分がこうしたいとかああなりたいとかいうのが出てくると、もうそれだけになってしまって、周りに気を遣う余裕がなくなってしまうのです。
 
それだから、自ら進んで人間関係を整理するようなことはしなくても、今までのようでなくなったぼくを見た人は、自然とぼくの前からいなくなったりするので、結果的に自分の人間関係は勝手に変わってゆきます。
 
結果的にはそれでいいんですけど、変わってゆく最中はしんどい。
 
 
人間関係は
好き嫌いの感情面と、連絡や顔を付き合わせる頻度のような関係の密度というか、距離感のようなものとの、ふたつの尺度で測れるものだとぼくは考えています。
 
実のところ、ぼくが言う人間関係の整理は、距離感の部分で人を思い切り自分から遠ざけるくらいの感覚です。前者の感情面は概ね変化しません。
 
自分のことに集中したいのでしばらくほっといてくださいみたいなことです。
 
ただ、感情面の変化はないけど距離をとるというこの感覚は、あまり理解されないことが多いです。
態度の変容があんまり突然なので、受け入れがたいというのも多分にあるのでしょうけど。
 
本当はもう少しなんかありそうなんですけど、明日から仕事なのでのここら辺で。
 
 
 
 
 

数字と人

これも昔の下書きを投下
 
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数字は、それ自体が言い訳できない強さを持っています。
 
どんなに痩せていると本人が豪語していても、体重計(の針がとはもう表現できないですね)が身長に見合わないでかい数字を指してしまえば太っていることになってしまうし、
 
どんなに頭がいいと自分で思っていても、試験で点数が採れなければ周りからそうは認められないでしょう。
 
逆に、
自分が無価値だと思っている絵に、ひとたび高値がつけば、持主は真価についてはわからないにしてもその絵の価値について認めざるを得ず、
 
あれは不味いと喚き散らしても、一定数以上常連客がいるようならそれなりに人気のある飲食店であることに違いはありません。
 
 
ぼくがあえて冒頭で、数字が持つのは”説得力”ではなく”強さ”だと書いたのには理由があります。
 
 
それは、数字に全く説得されない人がいるということです。
 
先の例で言えば、
これは体重計の方が壊れてるのだ、とか試験の日はたまたま調子が出なかった、とか絵の鑑定士の目が、そこの店の常連客の舌が、おかしいのだとして認めないような感じ。
 
 
今日、東北でとれた食材を使った料理を出すイベントに行ってきました。
 
東北の野菜やお米は震災が起こってから、国の厳しい検査と、農家のさまざまな努力のもとに、客観的な数字としてその安全性が保証されてきましたけど、
 
そういう数字にさえ、共感を示さない人が少なからずいるのは、残念なことです。本当に。
 
 
ただ、強さを持った数字に説得されないことがその人の可能性を広げるケースもあります。
 
 
また最初の例に戻りますけど、
現在太っていると言われる体重であったとしても、その数字は自分のさじ加減で増減させることが可能だし、
 
試験で点数が採れないことだって、そのままその人の頭の良し悪しを決めるものでもないはずです。本来なら。
 
 
こうした条件下において数字は、あくまで現在の状況を示すひとつのバロメーターに過ぎません。
 
 
それでも数字が客観性を持つことは誰の目にも明らかですから、
数字をひとたび目にしてしまうと、自分はこうなのではないか、ああなのではないか、これに関しては自分にはできないのではないか、無理なのではないか、と思い込んでしまう。
 
もちろん人生一度きり、時間は有限ですから、あらゆる選択肢を蓋然性のふるいにかけて絞っていく作業は必要です。
 
ですが、必要以上に数字に縛られると、自分で自分の可能性を小さくしてしまうのもまた確かなことではないでしょうか。
 
 
確率を未知数にしたまま飛び込んでいくところにこそ、道が拓けることもありますよね。