千里の道を共にする友はあるか

 20140819  下書き投下part4

 

人間関係を道を往くことに例えるなら、友人は

共に道を往く人だと思っていました。

 

しかし最近は、

道を歩いていて、たまたまその場を共にすることのある人が、友人なのではないかと思うようになりました。

 

たまたまっていうのは言い過ぎかもしれんですが、

要は、無理に歩調を合わせたり、歩く向きを揃えなくても、

自然と近くを歩いていけるような人が、友人なんじゃないかと。

 

更に言い換えるなら、

逃げ場のある関係こそが、正しいあり方なのではないかと、そんな風に思うようになったのです。

 

共に道を往くのが友人なら、

それは共にあることが前提になってしまう。

それを前提とすると、共にいられなくなるような事態が起こった時に友人関係を続けるために、共にあるために、相手を自分に合わせたり、自分を相手に合わせたりすることもあるだろう。それではどちらかが自然でなくなってしまう。

それが上手くいかなければ、共にあれない人とは人間関係を断ち切るしかない。0か、100か。共にあるか、否か。

これでは逃げ場などあるはずがありません。

両者の関係を一旦保留するなんて選択肢はないのですから。

 

 

たまたまその場を共有することがある人が友人だという考え方は、

そういう意味では人間関係のくっつく離れるに関して、とても柔軟です。

人間生きてればどんなに仲が良いとか、好きだとか思った人とでも、馬が合わなくなることだってあります。

 

そういう時はさっと距離をおけばよい。

無理に合わせようとするのではなくて、なんでそういう状況になっているのかを考えてみたり、自然とまた一緒にいられる距離感を保てるようになるまで待ってみたりする。

 

スイッチ

 

やはりAmazonは神であった。

あらゆる障害に阻まれ、今週中にはゲットできぬと諦めたnintendo switchを本日受け取ることのできる運びとなったのは全てAmazonのおかげだ。

あとTwitterのswitchの在庫状況をリアルタイムに共有してくれてるアカウントのおかげでもある。

 

いやしかし頼んだのはAmazonプライムデーの始まった昨日。

届くのは今日と、スピード感があるのはよいのだけれど、なんかもっと受け取るまでのまだかなまだかなみたいなわくわく感を得たかったというのも否めない。

 

でも手に入るのだから文句は言うまい。

スプラトゥーン2を買うので、もしやってる方いましたらフレコ交換しましょう。 

 

 追記1

 

コンビニでの受け取り方わかんねえと思ってたら、

受け取り方の指南メールがAmazonから来ていた。

Amazonは神。テンション上がって焼き鳥も買ってしまった。

 

追記2

 

なんかやたら箱が軽いんだがこれ中身入ってるのか…? めちゃ不安になっている。とりあえず帰ろう…。

 

追記3

 

ちゃんとスイッチでした。

画面のシール貼るのミスったけどテンション高いから気になりません。今からゼルダを買いに行きます。とてもサイコーなんだけどひとつだけ悪いことがあるとすると今日が火曜日だってこと。 

3度めのさよなら

 

先週の土曜に父方の祖母が亡くなり、

葬儀を終えて今しがた帰ってきた。

 

長風呂が好きだった祖母。

風呂で温まったあとは風呂掃除を終えてからあがってくるのが恒例で、

いつも2時間くらい風呂場にいたのをよく覚えている。

亡くなったその日も、同じように風呂掃除をしていたらしい。

高いところは危ないからと母からも、父からも、ぼくも、妹も言っていたのだけど、

高い位置にあるタイルの拭き掃除をしていたときに、足をすべらせて、そのまま帰らぬ人となってしまった。

 

一緒に暮らしていたら、こんなことにはならなかったかもと、母は言っていた。

 

葬儀を終えた後、祖父と祖母の家だった家に行った。

キッチンには洗い終わった皿が綺麗に並べてあって、机の上には外した補聴器が置いてあった。祖母も、まさかその日死ぬなんて自分でも思ってなかっただろうと、思う。

 

現にその日も、夜まで近所の人たちとおしゃべりをしていたらしいから。

また明日と別れて、それがそのままになってしまったと、弔問に来てくれたご近所さんが言っていた。

 

祖母は100歳まで生きにゃいけんねと母にも言っていたらしいし、

正月に会いに行ったときも、一緒にお酒を飲んだりして、元気そうな姿を見ていたこともあって、何が何だかという感じだった。

 

出棺のとき、父が、

父の祖父の出棺の時もそうしていたように、

祖母の額に手をあてて、ゆっくりとなでる姿を見て、そこでぼくは初めて涙が出た。

父はこれでひとりぼっちになってしまったのだ。

ぼくは父が普通に泣いている姿を、20何年生きてきて、初めて目にした。

 

夏や正月に、熊本を訪れる理由も、これでなくなってしまったんだなあ。

 

 

 

藤原京

 

相手がなんだろうが、おれは好きでも嫌いでもないのだとその人は言った。

 

好きと言った瞬間、嫌いと言った瞬間から、

それは自分を狭めることになるのだと。

 

何でもいいんだとその人は言った。

とにかく打席に立って、空振りだろうがホームランだろうが、死ぬ気でバットを振れと言った。

 

楽しい人だった。

自分の我を通すより、自分を含む空間全体の幸せを願っているのだと感じた。

 

そしてその人は、そのように考えるように努めていると言った。誰にでも簡単にできることだよと言った後で、でもそれを続けるのは頑張らないといけないかもと笑った。

 

腹の底に溜まっていた悩みごとはすっかり消化されてしまって、かっこいい大人にきらきらと憧れた。

 

 

 

 

帰省ー出来事ー

 

3月に葬儀があったかと思うと、4月には地震があって、

そんなことだから長めのGWは家族と過ごすと決めてあったのだった。

 

福岡の実家に、熊本の祖母がやってきていたので、

ぼくは鹿児島の祖父のところに一人遊びに行った。

 

昨日はちょうどこどもの日であったので、

ぼく以外の孫や、じいちゃんの子らに手当たり次第電話をかけて、

じいちゃんといろいろ話をしてもらったりした。

 

今まではまずばあちゃんがいたし、

鹿児島に帰る時はだいたい家族やいとこがいたりしたから、

じいちゃんと二人で過ごすのは初めてだった。

 

妹が生まれた時に、父方、母方の祖父母が両方千葉にやってきたことがあって、

その帰りに父方のじいちゃんが、母方のじいちゃんに贈った焼酎があって、

夜ご飯のときはそれを二人で飲んだ。

 

亡くなったばあちゃんと、それをプレゼントしたこれまた亡くなったじいちゃんの話をした。

 

二人で話をする時は、アルバムがとても役に立った。

 

ぼくは、親戚が妹を見る度、母の小さいころに似ていると言うのを不思議に思っていたので(少なくとも今は全然似ていない)、母の昔の写真を見たいと言ってあちこちからアルバムを引っ張ってきたのだ。

 

実際アルバムを開いてみると、母の昔の写真だけでなく、

じいちゃんとばあちゃんが島で暮らしていた頃の写真とか、

じいちゃんとばあちゃんが結婚したばかり(!)の時の写真とか、

母方家族が職場の旅行に行った時写真とか、それ以外にも親戚のこどもとか、結婚式とか、本当にいろいろな写真が出てきて、その度にこれはなんだあれはなんだとじいちゃんに聞いて、あれこれ答えてもらった。よく覚えているなあと思った。(親戚の子たちの現住所とか今の職業とか、これは誰の子、彼の子みたいなこと)

 

今までもたくさん昔話を聞いてきたけれど、

今回は今までよりずっと具体的な、じいちゃんがぼくの歳の頃だった時の話とか、

ばあちゃんとどういう経緯で結婚することになったかとか、母さんを育てていた時の話とか、そういう話がたくさん聞けた。

 

じいちゃんは家を綺麗にしているし、

日めくりカレンダーも毎日欠かさず破いていて、

ばあちゃんが亡くなったあの日に取り残されずに、元気に生きているなあと思った。

 

 

朝7時半には起きて朝ごはんを食べ、11時すぎにはお昼を食べて12時から14時くらいまでお昼寝をして、それから買い物にいったり、ご飯の用意をしたりして、17時過ぎには夕飯を食べ始め、21時には眠るというごくごく健康的な生活で、毎度のことながら、ぼくは生活リズムを矯正された。

 

とても素敵なことなのだけれど、このリズムでは来週の社会復帰が危ぶまれるので、今日明日でまた再矯正する必要があるなと思っているところだ。

 

続きからは、ほんとに細々とした出来事。

 

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3月

 

戦後の貧しい時代を生き、

勤勉に働き、現代社会の礎を築き、家庭を持ち、

子をもうけ、そうやって頑張ってきた祖父や祖母が、

どういう思いの中でこの世を去ったのかはぼくにはわかりません。

 

そうした80年の重みも、去り際はあまりにあっけなく、

骨壷は悲しいくらいに軽く、3月にあった葬儀では、一方で泣く人があれば、

他方ではおらず、人の人生とは、その人の一生とはと、思わずにはいられんのです。

 

家族と離れて暮らしているぼくが最近思うことは、

自分の人生に関係のある人間というのが如何に少ないかということです。

友達や同僚や、会社や大学の先輩、後輩、そういった人たちは、

環境によって変わっていくもので、人生に関係があるかと言われれば、

必ずしもそうであるとは言えず、仮にぼくがここで死んだとして、

それが誰かの人生に何かしらの影響があるようなことは決してないはずで、

そうであればこそ、自分の人生にはなんの意味があるのだろうとそんなことを考えてしまう。

 

これといったあてはなく、

かといって今を存分に謳歌しているかと言われれば、そういうわけでもない。

そんな感じで、年始から元気も覇気もないが、生きてはいるのだ。