数字と人

これも昔の下書きを投下
 
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数字は、それ自体が言い訳できない強さを持っています。
 
どんなに痩せていると本人が豪語していても、体重計(の針がとはもう表現できないですね)が身長に見合わないでかい数字を指してしまえば太っていることになってしまうし、
 
どんなに頭がいいと自分で思っていても、試験で点数が採れなければ周りからそうは認められないでしょう。
 
逆に、
自分が無価値だと思っている絵に、ひとたび高値がつけば、持主は真価についてはわからないにしてもその絵の価値について認めざるを得ず、
 
あれは不味いと喚き散らしても、一定数以上常連客がいるようならそれなりに人気のある飲食店であることに違いはありません。
 
 
ぼくがあえて冒頭で、数字が持つのは”説得力”ではなく”強さ”だと書いたのには理由があります。
 
 
それは、数字に全く説得されない人がいるということです。
 
先の例で言えば、
これは体重計の方が壊れてるのだ、とか試験の日はたまたま調子が出なかった、とか絵の鑑定士の目が、そこの店の常連客の舌が、おかしいのだとして認めないような感じ。
 
 
今日、東北でとれた食材を使った料理を出すイベントに行ってきました。
 
東北の野菜やお米は震災が起こってから、国の厳しい検査と、農家のさまざまな努力のもとに、客観的な数字としてその安全性が保証されてきましたけど、
 
そういう数字にさえ、共感を示さない人が少なからずいるのは、残念なことです。本当に。
 
 
ただ、強さを持った数字に説得されないことがその人の可能性を広げるケースもあります。
 
 
また最初の例に戻りますけど、
現在太っていると言われる体重であったとしても、その数字は自分のさじ加減で増減させることが可能だし、
 
試験で点数が採れないことだって、そのままその人の頭の良し悪しを決めるものでもないはずです。本来なら。
 
 
こうした条件下において数字は、あくまで現在の状況を示すひとつのバロメーターに過ぎません。
 
 
それでも数字が客観性を持つことは誰の目にも明らかですから、
数字をひとたび目にしてしまうと、自分はこうなのではないか、ああなのではないか、これに関しては自分にはできないのではないか、無理なのではないか、と思い込んでしまう。
 
もちろん人生一度きり、時間は有限ですから、あらゆる選択肢を蓋然性のふるいにかけて絞っていく作業は必要です。
 
ですが、必要以上に数字に縛られると、自分で自分の可能性を小さくしてしまうのもまた確かなことではないでしょうか。
 
 
確率を未知数にしたまま飛び込んでいくところにこそ、道が拓けることもありますよね。