世代間交流 前半

何日か前に達人達という番組をNHKでやっていたんです。

私の見た回では半藤一利さんと宮崎駿さんが対談されていました。

 

対談も終わって、二人がわかれた後、宮崎さんはぼそっとこう言いました。

「ああいう歳の取り方をすればいいのだという、いい見本ができました」

 

私のようなものから見れば、半藤さんも宮崎さんも同じ大先輩ということになるのですが、宮崎さんからしてみれば、半藤さんはさらに先輩なのだなと思いました。

それもとても背中の大きな、尊敬すべき先輩なのだなと。

 

少し話を横に逸らしましょう。

 

今は情報化社会だなんて言われて、メールでも電話でも使えばどこにいる人とでも、

距離を気にせず、気軽に連絡がとれるような世界になりました。

グローバル化なんて言葉も生まれるくらいですから、今は人類の歴史上最も人が外に開かれている時なのかもしれません。

 

しかし、日本に限って言えばそれはむしろ逆で、コミュニティはどんどん閉鎖的になっているような気がするのです。良く言えば、それは"多様化"ということになるのかもしれません。

個人の実感としても、誰にでも通じる共通の話題というのが、本当に普遍的なものに限られてきたなあという気がしています。

昔は皆が聞いている音楽、だとか見ているテレビ番組だとかそういう共通の話題があったと思います。

しかし今は人と話す話題となると、多くは相手と自分の共通部分という極々狭いところになってしまっているような印象を強く受けます。

 

だから、共通の話題がある人達とは驚くほど仲良くなるけれど、

そうでない人に対しては逆にとても排他的になっている。

 

閉じたコミュニティというのは、大体似たような人しかいませんからその中はとても平和で、そして次第に絶対的なものになっていきます。何故ならそこで正しいとされることを否定する人は、そのコミュニティから排除されていくからです。

同じ意見を持った人しかその場にいなければ、その意見は絶対です。

 

しかし例えば、Aというものが好きだという人が集まったコミュニティがあったとしましょう。そこはAが好きだという人しかいないので、先に述べたように普段は平和です。

ですが、一度Aが嫌いだという人や、さらに直接的にAを攻撃する人などが現れると、Aが好きだというコミュニティの人は(全員が全員ではもちろんありませんが)その人を全力で叩いたりします。

普段Aが好きだという人しかいない環境に慣れているので、そうではない意見が不意に舞い込んできた時に、対処に困った挙句に窮鼠猫を噛むと言った具合で攻撃をしてしまう。

ネットの世界の炎上や、現実世界で○○のファンと△△のファンの争いが暴力沙汰に、なんてことがニュースになったりしますが、どちらもこのキュウソネコカミが原因ではないでしょうか。

 

冷静になってみればなんてことはない、何かが好きだという人がいれば嫌いだという人もいて、そんなことはどうでもよろしいと思う人だっている。当たり前です。

ところが普段はそのどれかの意見だけに属している人というのは、そんな当たり前のことをついつい忘れてしまう。自分の意見を相対化することを怠ってしまう。

 

わかりやすくするために少し極端な例で話をしてしまいましたが、

今世の中はこうした閉じたコミュニティに溢れていると思うのです。

 

学校なんかはその最たるもので、

私なんかは大学生になりますが、それでも意識をして外に出て行こうとしないと、

自分と違う世代に出会うことはなかなかありません。いわんや小中高生をやです。

会社なんかも、もしかするとそういう閉じたコミュニティのひとつかもしれません。

 

 

こぼれ話が長くなってしまいましたが、話を本筋に戻しましょう。

 

 

(明日に続く)