世代間交流 後半

(前回の続き)

 

様々な閉じたコミュニティがあるという話をしましたが、

それらの多くは各世代ごとに輪切りになっているのではないかなと思うのです。

先に言った学校だとか、会社だとかはその典型例ではないでしょうか。

 

そして、何度も言いますが閉じたコミュニティ間では交流がとても少ないです。

少し話が大きくなってしまいますが、この交流の欠如が日本という枠を考えた時に重大な損失につながるのではないかと考えるのです。

 

一所にとどまる水が濁るように、閉じたコミュニティの中では腐る人材が多く出るでしょう。

というのは、コミュニティ内には概ね同質な人のみが存在しているので(意見の違うものは排除される)、差異を意識することもなければ争う必要もなく、良く言えば平和、悪く言えば切磋琢磨もなにもない状態が持続するからです。それに、閉じた世界というのはとても狭いです。

自身の属する世界以外を否定するような、排他的なコミュニティが増えると全体としては衰退するしかないよなあと思うのです。

 

若い人達の「老害がうるせーなあ」とか

私やさらに先輩方の「最近の若いやつらは」というのは、自身の属する世界以外を否定する言葉の典型ではないでしょうか。

 

私たちは望むと望まぬとに関わらず日本という国に生きています。

そこには当然ながら老若男女様々な人が住んでいて、その価値観もばらばらです。

そのばらばらを受入れることなく、似通ったものだけで集まって生きていくならば、

私は国は続いていかないいよなと思うのです。

 

何かが続いていく状況では、個々の要素の間に伝わるもの、通ずるものが必ず存在しています。

今のように閉じたコミュニティ同士がお互いを否定しあう世界では、

各コミュニティのもつ良さは削られ、悪いところは強調せられて、

そしてお互い何も得るものはない。これが先に述べた全体としての衰退です。

 

今大切なのは、概ね各世代で輪切りになっているコミュニティ間の、

すなわちそれはそのまま各世代間のコミュニケーションなのではないでしょうか。

 

そのコミュニケーションというのが宮崎さんの

「ああいう歳の取り方をすればいいのだとう、いい見本ができました」

の一言に集約されていると思うのです。

 

各世代でのやりとりが増えれば、それだけ共有するものが多くなる。

最初から共有するものを持っているもの通しで繋がるだけでなく、

何もないところから、共通項を作っていく。

その作業がそのまま、日本が続いていくために必要な「個々の要素の間に伝わるもの、通ずるもの」をつくる作業になっていくのだと思います。

 

コミュニケーションで重要なのは、お互いがこうあるべき、というのを押し付けるのではなく、お互いがお互いの存在を認識することで、自身の立ち位置を把握することです。

 

そうすることで閉じたコミュニティで絶対化されていたものが、次第に相対化されていき、個々のコミュニティの構成要素である自分から、

続いていく日本の流れの中で自分を確認できるようになるはずです。

 

先輩の背中を見る、その背中から感じ取った物を胸に自分も後輩に背中を見せる、その後輩も…と連綿続いていって初めてそこに日本が現れるのではないかなと思うのです。

 

 

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考えがしっかりまとまったら、またきちんとした形で書きたいと思います。

書きなぐりですいません。また書いている途中を投稿して申し訳ありませんでした。