命の価値はどうはかるのかという話

藤沢数希さんが今朝、認知症の男性が線路に飛び込んで死亡した事故(?)に対し、JRが賠償金を支払ったことに関して、

『話は変わるが、交通事故とか医療事故で老人が死んじゃった時も30代のピンピンしてる人が死んだ時も、加害者の賠償額ってそれほど変わらないのはおかしいと思う。80歳の爺さんが死んでも、余命の数年が犠牲になっただけで、30歳の兄ちゃんよりは、はるかに罪は軽そうなもんだけどね。』(原文ママ)
 
とツイートされていた。
 
正しいとも、間違っているとも感じられた。
 
仮に引用文中の80歳の爺さんと30歳の兄ちゃんの両方にそれぞれに歳の近い妻があったとしよう。
藤沢さんの言うように、余命の違いから今後の生活にかかるお金は後者が大きくなるのは明らかだ。30代夫婦に生まれたばかりの子などがいれば、なおさらである。
 
将来かかる生活費、あるいは死亡者が生きていれば得られる(稼ぐ)はずだった収入と考えてもいいかもしれないが、これらの観点から見ると、確かに加害者の賠償額が爺さんと兄ちゃんで大差ないのはなるほどおかしいことのように思える。
どんな綺麗事を言おうと、生きていくにはお金がかかる。
そしてその必要金額が若者の方が多いとするならば、若者の命を奪った時の賠償金の方が多くて然るべきだと考えてしまう。
 
 
ここでもうひとつ考えておきたいのは、藤沢さんがツイートの結びを「罪は軽そうなものだ」としていることだ。
はたして「罪が軽い」とはどういうことなのだろうか。
彼は、少なくともこのツイート上では命の重さを"死亡者の所有するはずだった未来の量"によってはかっている。
だから定年まで30年ほどを残している若者と、余命いくばくかの老人を比べるなら、前者の命の方が「より重い」という結論になるのだろう。
「より重い命」である若者の死に対しての賠償金は、老人の死に対するそれより多くするべきだと導き出したのとおよそ同じ考え方で、今度は「より軽い」老人の死に対する罪は、若者の死に対する罪は、若者の死に対する罪より軽いと結論することができる。
 
だが、本当にそうなのだろうか。
 
命は、お金ではかられるべきものなのだろうか。
どちらが重く、どちらが軽いなどと言えるものなのだろうか。
 
賠償金を重くする軽くする、という話だったら納得がいくのに、
罪、という話になるとそこに差をつけることに違和感を覚える。
 
同じことなはずなのに、とても変だ。