昨日の記事のコペルニクス的転回

 
昨日の学術論文や議論などが世間に発生する問題を先取りするという話で、
私はそれが世に広まらないのはもったいないということを言いたかった。
 
しかしまあよく考えてみると論文その他学術的言説は現実を予測し、その事態を免れるための警告や注意喚起を行うことを目的とはしていないのだろう。
 
誤解を恐れずに言うのなら、そこに描かれた予測(仮説)が現実になることすら願っているはずだ。その時、論説はその評価を絶対のものとするのだから。
 
つまり現実となるかもしれないと人びとに思われるような論説が、(そしてもっと言えば本当に現実となってしまうような論説が)説得力のある良い物として認められるということである。
 
大切なのはいかに説得力を持たせるかである。その論説の立つ仮定が本当に現実となるか、ならないかはこの際問題ではないのだ。
何故なら大切なのは論説が評価されることであり、現実を正確に予測することではないからだ。
 
 
昨日は論説が先にあって、現実が後からついて行くのだと思っていた。
しかし事実の多くは全く逆であって、今でも読まれているあるいは聞かれているような権威ある(つまりとても説得力のある)論説というのは、今この現実によって絶対的な説得力を与えられているからこそ現在でも力を持っていて、存在し得ているのだ。
全く現実からかけ離れたことを予測しているような、説得力を失ってしまった論説は次第に表舞台からは姿を消していくはずである。
 
丁度地動説が広く認められるようになってから、天動説が主流の時代にはてんで相手にされなかったコペルニクスが再評価をされて、天動説を唱えていた人びとが歴史に埋れていったように、だ。
 
 
なーんて。
本当は個々の学者さんがどんなつもりで日々研究されてるのかなんかわからないんですけど。
ただ、事前に警告があるにも関わらず現実がそれを後追いしてしまうという構造では必ずしもないのだな、ということが書きたかったのでした。
 
今日は何故だかとても眠くて、そのまま寝過ごして書き損じるところだった。危ない危ない。