約束と人間関係

 
※間違って途中までしか書いていない下書きの方で更新しておりましたので、追加と訂正をしました。失礼致しました。
 
 
 
携帯電話の登場は、多分に各方面に多大な影響を与えたのでしょう。
 
 
私が今日記の更新中に駅のホームみたいな公共の場で別れ話してるカップルの、
ボロ泣の彼女と目があっちゃったみたいな気まずい出来事だって、
 
携帯電話で日記を更新できるようにならなければ起こらなかったでしょうから。
 
 
でも今日書くことはその多大な影響を受けた各方面の中のひとつであろう、人と人との約束のあり方についてです。
 
 
 
 
私はついさっき友達と飲む約束をして、今は電車に揺られています。
 
 
こんなことって、
人と約束を結ぶのに、その約束を結びたい相手を目の前にしなければならなかった時代にはありえなかったことでしょう。
 
昔と言うのは、固定電話すら存在していなかった時代のことになりますかね。
 
 
手紙という間接的な手段があったとは言え、手紙の往来自体に時間がかかりますから、今回の飲み会のような急ごしらえな約束を結ぶのは難しいことでしょう。
 
 
そんな時代では、約束はきっと結ぶ機会も限られていたし、成立したからにはそれなりに重みのあるものだったと思うのです。
 
以前実家に帰省した際は父の昔の恋愛事情なるものを聞いたりしたんですけど、恋人に恋愛ひとつとるにしたって、固定電話を介す他なく、電話をする時は相手側の親御さんがでないかとかいろいろとドキドキする要素があったと、そういうわけですよ。
 
携帯電話は、携帯されているものあってその所有先は大抵個人ですよね。
 
 
今の携帯電話の連絡、ひいては約束のとりつけは時間的制約と人的な制約の両方を軽々と飛び越えているわけであります。
 
私なんかが中学生の時は携帯の所持者なんかまだまだ少ない方でしたが、今の世はまた変わってきていることでしょう。
 
 
約束は、
結ぼうと思ったその時にすら結べるくらい、軽いものになっているわけです。
気軽なものになったと言ってもいいかもしれません。
 
 
携帯電話の登場によって、約束も言葉やサービスのように、その場で発生しては消費されていくものとなり得るようになったのです。
 
しかしまあ契約書なんてものまで存在する世の中ですから、
元々人びとの心の上では約束なんてものはその場限りでその場しのぎな
ものだったのかもしれません。書き留めておかなければ、
いくらでもなかったことにも、内容を覆すこともできてしまうわけですから。
 
 
約束を契約書を書くようなものだとすると、
さっき言った昔は、その契約書を書いたり更新したりする機会がとても限られていた時代だと言えそうです。契約、というと大仰ですけどそれすなわち約束を結ぶ機会がそもそも限られていたわけだし、結んだ後に内容を変化させたいと思ってもまた手間がかかります。
 
今の時代はいつでもどこでも契約書が更新できる時代なのでしょう。
土壇場キャンセル略してドタキャンという言葉があります。
土壇場という日本語とキャンセルという外来語を組み合わせるこの語感にはものすごいものを感じますがそんなことはどうでもよくて…
 
ドタキャンなんて言葉、多分昔はなかったと思うのですよ。
というのは、土壇場になって相手にこの約束を破棄しますよという連絡をする手段がないと、ドタキャンができないからです。
もっと言えば、昔は約束を結ぶ機会が少なかった、限られていましたから
きっとキャンセルする可能性があるような約束ならしなかったと思います。
約束は固定されたものから、かなり流動性の高いものに変化してきているようなイメージですね。
 
言い換えれば相手と約束をするか否かを迷う時代から、
たくさんの約束の中からどれを選ぶかを迷う時代になっているのではと考えるのです。
 
ドタキャンが起こる時って急な予定が入ったとか、ひどい話ですが元々の予定より楽しそうな予定が舞い込んできたとか、そういう時ですよね。
 
予定は予め定まっていると書くわけですから、
急に舞い込んでくるようなものは予定ですらないと思ったりもしますけど、
つまりはそうやって次々に舞い込んでくる契約書たちを目の前にして、
どの契約、どの約束をとるかってのが今の時代なんじゃないかと。
 
 
思ったことを整理せずに書き散らかしましたけど、
約束のあり方の変遷を見ていけば、人と人とがどういう風に関係を結んできたかってのがわかるような気がしましたよという、ただそれだけの話なのでした。