お金と人と
男が絡むと豹変する女がいるように、
お金が絡むと人が変わってしまう人がいる。
普段は温厚な彼が、居酒屋の店員には横柄な態度をとったり、
あれだけ声高に基本的人権の尊重を叫んでいた世間が、
会社でのセクハラや嫌がらせなどを訴える声を「これも仕事のうちだ」とか
「お金のためなのだから多少のことは我慢しろ」だとか言って
封殺したりする。
これはいったいどういうことなのだろうか。
現在のわれわれの生活を支える物的な豊かさは、
間違いなく貨幣経済の普及によって成り立っている。
なぜなら貨幣の登場によって、人々は何かに特化しながら、
同時にすべてに通ずることができるようになったからだ。
貨幣がなければ、農業労働者が農業用機械を手に入れるまでには途方もない物々交換を
強いられたことだろう。いや、貨幣がなければそもそも農業用機械の生産すらもなかったかもしれない。
「金が物をいう」という言葉があるが、これは文字通り金が人々の需要を代弁しているのである。
農家の生産物と農業用機械の直接の交換は無理でも、生産物を金に換え、その金を使って機械を買うことはできる。
金を持った農家が農業用機械を需要するから、それが初めて需要として成立する。
交換手段を持たずして何かを需要するというのは、馬を買わずに鞍を買うようなもので、意味のないことだ。
では交換手段、もっと言うなら自分の需要するものに見合う対価さえ持っているならば、その需要は正当なものとなるのだろうか。
冒頭の居酒屋の店員に横柄な態度をとる彼は、金を支払うことで料理や飲み物だけでなく、店員を小間使いのように扱う権利をも買っている「つもり」になっている。
セクハラや嫌がらせの訴えをを封殺する声だって、それを訴える人が得ている対価(=賃金)がそれらの不利益を上回って有り余ると考えているからあがってくるわけだ。
友情や愛はお金で買えないとよく言われるが、
現実には例のように人の気持ちや行為が金によって売買されたり、おさえつけられたりする事例が往々にして存在している。
どうやら金が人と人との関係を媒介するとき、
そこには金のさし挟まらない時とはなにか違う状況があるようだ。
これをね! 最近は調べています。
お金が媒介するときとしないときの人間関係。
もっともっとまとまってきたらここでも公開します。
結構先の話になると思いますが。