線を円にする考え方と自己 線

 

 数直線、を考えてみましょうか。

 

マイナス無限大から、プラス無限大をとり、真ん中に0をとる、あれです。

 

生きている人間が全部この数直線上のどこかに配置されるとします。

 

より大きな数を指す点にいることが良いことだとすると、

きっと、自分より小さな数を指す点にいる人を見て安堵したり、蔑んだり、否定したり、自分より大きな数を指す点にいる人を見て羨んだり、嫉妬したり、鼓舞されたり、するのでしょう。

 

より大きな数を指す点にいることが良いことだとは言っても、

おそらく絶対値(0からどのくらい離れているか)の大きな数を目指す人は少なくて、大事なことは自分の周囲と比べて自分の数が大きいのか、小さいのかということではないでしょうか。

 

そういえばグラフは、その軸が何をとるのかを明記しますね。

 

この数直線が一体何をとっているかと言えば、何でもをとっているのです。

身長や、体重や、年収や、学力や、顔面偏差値や、美的センスや、

そういったものを全てとっている。

 

各項目ごとにとられる数直線の点を集めたのが、

私であり、あなたであるわけです。

 

 

なんだそれ。

と思うかもしれません。

 

 

◯◯ちゃんに負けないようにお稽古頑張りなさい。

とか、

稼ぎはおれの方がいいのになんであんな奴を。

とか、

この年齢でこんなに勉強ができる私はすごい。

とか、

 

全部なんかの数直線上での自分のとっている値を、

他人の値と比較した時に出てくる言葉ですよね。

 

ごちゃごちゃわかりにくい説明をしましたけど、

つまりは”自分”というものを、他と比べることによって定義しているのではないか、という話です。

 

事実として優劣がある以上、それは個性で、

その個性からなる”私”=自分なんじゃないか。

それもそうだと思います。

でも、もしその自分を構成する数直線が急に消えてしまったら。

消えるまでいかなくても、自分のとっていた値が急に小さくなってしまったら。

そうなってしまった時の”私”を自分だと認めてやることができるでしょうか。

 

ここまでが、題名の「線」の部分。

 

 

次は「円」の話です。