トレードオフではないはずだ

 

「勝手に静かに閉まるドア」なんてものがあります。

学校や病院なんかで使われていて、

仮に乱暴に戸を閉めたとしても、閉まり切る直前で一旦その勢いが殺されて、

静かに閉まるというものです。逆に閉める勢いが弱すぎたとしても、うまいこと勝手に閉まってくれます。

 

同じようなもので、定式化されてしまった挨拶なんてものがあります。

人に物を贈る時に言う「つまらないものですが」なんてのがそうですね。

 

どちらも、便利です。

戸を閉める際、力の加減を気にする必要がなくなる。

物を贈る際、なんて言って渡していいものか悩まずに済む。

 

 

それで、いいのかなと思うのです。

 

 

扉が静かに閉まるのが好ましいのは、部屋の中にいる人を気遣ってのことでしょう。

つまらないものですがという言葉は、相手のために選んだ贈り物を快く受け取ってもらうために生まれたものでしょう。

 

だから、扉は静かに閉めるのだし、物を贈る時にはつまらないものですが、と口にするのでしょう。

 

そこが、その前提がなくなってしまって、

扉の方で勝手に静かに閉まってしまったら。

物を贈るのだからとりあえず定例化された挨拶としてつまらないものですが、と口にするようになってしまったら。

 

もともとその行為や言葉に込められていた相手を慮る気持ちみたいなものは、

なくなってしまうように思うのです。

 

 

煩雑さを捨てて、自動化、定型化、マニュアル化されて、

どんどん便利になっていく世の中ですけど、

そういう根底の部分は忘れたくないものだなと強く思います。