天は自ら助くる者を助く

 

頑張るとか、

やる気をだすとかは、

 

少なくとも自分に限った話で言えば、

「自分はやれるやつだと信じる」

ことから始まるものだったのだと、今、気が付きました。

 

やる気に満ち溢れていた中学時代、

自分はやれば何でもできるやつだと思っていました。

本気でそう思っていました。そんな自分がかっこいいと思っていました。

 

だから部活で誰にも負けたくなくて、素振りも毎日1000本やったし、走り込みもしたし、練習も誰より本気でやっていました。

だからこそ、負けたら悔しくて、泣いてました。

 

勉強も、自分より頭がいい人がいるのが許せないと思っていたので、

午前0時に寝て、午前4時に起きて勉強して、学校に行って、なんて生活をしていました。

 

思えばこの頃が、最も純粋に自己を肯定していた時期でした。

何の肩書にもよらず、文字通り自己を肯定していたのですから。

 

”やれば”何でもできると思っていた、そう信じていたので、

できるようになるまで、自分が納得するまではどこまでも”やりました”。

子どもっぽい全能感を安易に持っているようでいて、それを持っていたからこそ、頑張れていたのだと思います。

 

 

高校生の私は、下手に名のある高校に入学してしまったことで、

自己の肯定の軸が「自分そのもの」から「その高校の生徒であること」にブレてしまっていました。

 

それでも自分の立場を否定するところにまでは至っていないので、

それなりに頑張れてはいました。

行事の運営職についたり、バンドを始めてみたりと新しいことに手をだすこともしていましたし、

中学の頃からやっていた人の相談に乗ることを、何故あんなに頑張っていたのか自分でもわかりませんが、寝る間も惜しんでやっていました。

 

しかし、このあたりで歪が生じます。

真っ当に自己を肯定しているわけではないので、

中学生だった時のように「自分のために頑張る」ということができなかったのです。

 

結果受験は失敗しました。

浪人生になりました。一年勉強すれば、正直志望大学には合格できると思っていました。

浪人生の自分には、自分を肯定できる要素も肩書もありません。

勉強は楽しかったし、もちろん生活の大部分の時間をあててはいましたが、辛いけど頑張るみたいなストイックな気持ちにはなれませんでした。

「勉強を楽しむ」ことそれ自体が目的になっていたように思います。

 

受験はやはり失敗しました。

 

現在は滑り止めに受けていた大学に通い、

3年生になります。2度受験を失敗し、3年生での入ゼミにも失敗し、

自分には辟易していました。自分には魅力や能力が足りないのだろうなと、思っていました。

大学生活の中で、自分を肯定していた時間が1秒でもあったかと問われれば

、そんな時間は0.1秒もなかったと断言できます。

 

だからこそ、頑張るのが馬鹿らしいと思っていました。 

取り組むその対象が楽しい物でないのならやる意味がないとさえ思っていました。

 

でもずっと楽しいものなんか嘘に決まっているのです。 

ずっと寝ているのは楽で楽しいけれど、それをしたところで自分は何も変わりませんでした。

何か変わろうと思ったら、必ずどこかで苦しい時、辛い時がきます。

そこで頑張ろう、続けよう、と決断させるのは他でもない自分を認めている自分です。苦労したその先を信じることができる自分です。

 

どうせ無理だ、やっても意味が無い、

そもそもこんな私なんて、

 

そんなことを考える自分に、どうして自分にとって決して楽でも平坦でもない道を選ぶことができるでしょうか。

未来の、明るい結果を信じることができないのに、頑張るもくそもあったもんじゃありません。やる気なんか、出るわけがありません。

 

よくわからんが、

やれると思ってるんだから、やれるようになるまでは頑張る。

 

 

愚直ですけど、

最短ルートではないかもしないですけど、

これが一番確実で、自分にも嘘をつかない、気持ちのよいやり方なんではないかと思ったのでした。

 

高校以来、私の中で自分を信じるということは「自分のすでに持っている能力や肩書を信奉する」ことにすり替わっていたのだと思います。何の根拠もなく、やれると信じ切れるほど、単純ではなくなった、子どもでなくなった証拠だとも言えます。

 

信奉に値する能力や肩書がある人は、いいでしょう。

ですが私のようにそれのない人であれば、まずは何もない自分を、そんな自分を信じてみる他は手立てがないとは思いませんか。

 

悲観的なことを言うつもりはありません。

大丈夫です。

 

やっていれば必ず、自分を肯定する根拠はついてくることでしょう。