固執するなかれ、さすれば道は開かれん

 

ネットに氾濫している情報の、

真偽を見極めるみたいな文脈でしか情報リテラシーという言葉を聞いたことがないけど、真偽を見極める以前に情報に如何に向き合うべきかっていうのをもっと重要視した方がいいじゃないかと思う。そもそも情報って、そんな真か偽かのいずれかみたいに白黒付けられるほど、絶対的なものじゃないんじゃないんじゃないかと思うから。

そんでもって、自分が持ってるその情報を絶対視しないというただそれだけで、

もうちょっと心にゆとりを持っていられんじゃないかと、そんなことを思う。

ゆとりというのは、その情報を元に誰かと話をする時に役に立つ。多分。 

 

全知全能だとか、

この世の全てを悟っているだとかでない限り、

自分の知ることのできる範囲というのは、当然限られている。

全てを知ることができない以上、何かを知ろうとしたら、ネットで検索かけるみたいに、この世に存在する全情報のうちどこかしらを限定して調べたり聞いてみたりしてみるしかない。

 

情報を得る、あるいは得ないという、このごくごく最初の一歩でさえ、「自分の興味」(興味ないものは知らない)とか「自分の知識」(知らないからそもそも調べられない)とかいったもんに左右される。

 

自分が得た情報を発信する場合についても考えてみる。

例えば町中で喧嘩している男女がいたとしよう。

それを見た人たちに喧嘩の様子について尋ねた時に、本当にただ単に喧嘩をしていたと表する人もいれば、どうやら気苦労をしているらしい女性に自分を重ねて、女性に同情的にその喧嘩を語る人もいれば、逆に男に感情移入して説明する人もいるだろう。

 

一度自分の中に入ってきてしまった情報というのは、アウトプットをする上ではその人というバイアスを通らずに出て来ることはほぼ不可能だ。

 

一見絶対不動で誰に対しても客観的に見える数字、これだって誤魔化しがきかないわけではない。統計はその調査対象を恣意的に選定することができるし、グラフの単位をいじったり、自分の意図する印象を与えられるように対象を選んで比較をしたりだとか、いくらでもやりようはあるように思う。

 

写真とか動画とかだって、技のある人にかかればいくらでも加工ができてしまうのだろうし。

 

いろんなものが誰かしらの意図に沿って、編集されて発信されたもんが情報だと思っている。

だから自分にとって正しいものが、ある人にとっては全く正しくないものであったりする。その時に、間違っているのが相手だとはなから決めてかかってしまっては、いかんのじゃないかな、なんてことが、ぼくが冒頭の全く改行しなかった文章で言いたかったことだ。

 

自分は正しいと思っているけれど、

違う解釈をする人もいるだろうな。その人は、じゃあこれをどういう風に見ているのだろう。って考えることができたら、すべてを知ることはできなくても、少なくとも目の前の相手の考えること分は、自分の世界が広がりそうじゃないですか。

話してみて、こいつとは相容れねーなあってなったら、そん時はそん時ですけど。

 

 

相当どうでもいいですけど、情報っていう単語にはなぜかとてもハイテクノロジーな響きがありますよね。そう思うの、ぼくだけですかね。