内と外と、それをあら捜しする人

「何か物を考えたり発信したりする以上、その媒介となるものが必要で、

それが言葉にあたるわけで、人の心は読むことはできないとは言え、そこに出てきた言葉が思考の結果なので、言葉を見ればある程度心中の推測が立つと、ぼくは思っています。」

 

これは二日前の日記に書いたやつです。

言葉を見れば、ある程度心中の推測が立つけれど、

だからと言って、例えば先日の松屋の牛丼の値上げに際する

「(牛丼を)おれは250円以下じゃなきゃ食べないという人には、

 申し訳ございませんと言うしか無い」みたいな言葉を、

「貧乏人には松屋に来ないで下さい」という意味に解釈するってのはやりすぎだと思う。

 

ぼくは会見とかを見たわけではないので、

もしかするとそう解釈されても仕方がないような口調や表情や物腰だったのかもしれないのですが。

 

表面に出てきた言葉を通り越して心中だけを見る(あるいは見たつもりになる)ことが許されるならば、

逆に心中を無視して、出てきた言葉だけを評価することも考えないとフェアじゃない。

 

心中でどんなことを思っていたとしても、最終的にはそれを言葉として外に出したということを、評価するという考え方があってもいいと思うのだ。その心中を表に出さないってことは、少なくとも社会的にそれが認められることではないことを本人は分かっているのだし、だからこそ言葉を選んで口にしているのだから。

 

心の中でどんなに悪いことを考えていたとしても、

外にでる行動や言葉に問題がないのなら、もちろんその「悪いこと」の程度にもよるだろうけど、勝手に心中を推し量ってその人を批判するのはむしろ間違った姿勢だと思う。

 

もうちょっと何か言いようがあるはずなんだけど、

どうも上手く説明できんですな…。

とりあえず明日のテストを終えるといよいよ残すところ1つになるので、

もうちょびっと頑張りまっする。