虫食い

 
以前に、世代間の交流、ともするとごくごく狭いコミュニティ間の交流というものが減ってきてるのではないか、というようなことを書きました。
それは老若男女を問わず人々の間に共通で理解できるもの、知っているものが徐々に減って、特定の”何か”を共有できるもの同士でしか繋がらなくなってしまったからではないかと考えて、そこで止まっていました。
 
今日は、何故そうした共有物が減ってしまったのかについて考えたことを書こうと思います。

 

一口に言って、その原因はインターネットの普及です。

もっと端的に言うのならば、検索エンジンの普及でしょうか。

 

昔は情報はテレビや新聞、ラジオや雑誌と、メディアは違えど基本的には「受け取る」ものでした。
言い換えるならば、情報の取得者は、情報の発信者の思う通りに情報を得ていたということになります。
 
ファッションの流行はその業界によって仕組まれたものだ、なんて話がありますが、それなんかが典型的な例です。
 
大きな力を持ったメディアが発信する情報を、皆一様に享受する、
情報が与えられる時代があったわけです。
その時代には、情報の流通経路とも呼べるようなものがおそらく整備されていたのではないかと思います。
この曜日のこの時間帯にCMを打っておけば間違いないとか、この雑誌のこの面に広告を載せておけば大丈夫だ、と言った具合にですね。
 
 
そこで、インターネットの登場です。
インターネットのひとつ大きな効力として、ぼくみたいなしがない大学生みたいなもんにも情報を発信する術を持てるというものがあるのは間違いありません。
しかし今日の本題である共有物の減少という観点からゆくと、冒頭でも述べたようにやはり検索エンジンの果たした役割がとても大きいもののように思えます。
 
インターネットには無数の情報が漂っています。
それはそのままでは利用ができないので、検索をして呼び出す必要があるわけですが、この作業こそが、人々から共有物を取り除いたのだと、ぼくは考えているのです。
 
そもそも人間は一人として同じもんは存在していません。
多様性の時代と言われる前から、人間は当たり前に多様だったわけです。
ただ、情報に関しては発信源が限られていたために、また一方的に受け取るだけの立場であったからこそ、その多様な人間が同じようなものを共有する形になっていました。
 
検索によって、自ら情報を「取りに行く」ことができるようになると、自然その個人が得る情報はその人が興味のある分野に偏っていきます。音楽が好きなら音楽の情報を、美味しいご飯が好きな人なら、美味しいご飯を出すお店の情報を、検索する。
 
検索は、言い換えるなら情報にフィルターをかけることと同じです。不要な情報はカットして、自分の欲しい情報だけを手に入れる。
 
先ほども述べた通り、人間は元より多様で、てんでばらばらです。
その人間が、それぞれの興味に合わせて情報を獲得するようになれば、人々がもつ情報もばらばらになっていくし、興味の深度等も人によって違うのですから、検索の精度によっては似たような興味の方向であっても情報を得る元ですら人によりけりだということになります。
 
情報が人々の上から降ってきていた時代から
情報という大きなパイの好きな部位を人々がつまみ食いするような時代になったというわけです。
部位によって味も見た目も全然違うので、それらをいっしょくたに語ることはできず、それはとりもなおさず人々の間から情報に関する共通性が除かれていくことに繋がります。
 
検索は万能なようにも思えますが、知らないと調べることができないという欠点もあります。
アンコールワットのことを知らない人が、アンコールワットのことを検索によって調べることはできません。
自ら情報を取りに行くと言えば聞こえはいいですが、知ってる人はより深く知ることができるが、知らない人は永遠に知ることが出来ないこの検索の構造も、人々の間の情報格差=共有物の減少を助長することに一役買っているように思えます。
 
 
検索は便利なので、これからもなくなることはないでしょう。
もし検索が本当に人々の間から共有物を減らす諸悪の根源だった場合、これからの時代、ばらばらになった私たちが再び一定の連帯を持つためにはどうすればいいのか、今度はそっちを考えなければいけないなあと思うのでした。