名前を捨てて


行きしに雨が降っていて、
帰りに雨が降っていない場合に傘を忘れる確率がめっぽう高いのですが、
これはぼくが傘に雨をしのぐという”機能”しか見ていないからなのだと思います。


デザインが好きとか、何か思い出があるとか、もっと俗っぽいとこで言うならすんごい高かったとか、そういう雨避け以外の価値を傘に見いだすことができれば、雨が降っていなかったとしても、きっと持ち帰るのを忘れないんだろうなと。



コップって聞くと、ぼくたちは飲み物を飲むための道具だと認識しますけど、
使いようによっては、あれは本当は花瓶にだって、小物入れにだってなることができる形状の何かでしかないのです。それを便宜上コップと呼んでいるだけです。


名前をつける行為は、
何かと何かを分けるためにするものです。
名前を与えることによって、四足の動物というひとつの括りから、さらに犬と猫を峻別できるようになります。

名前がつくことによって犬は猫ではなくなるし、猫も犬ではなくなって、
さっきのコップの話で言えば、コップはコップでしかなくなってしまうわけです。


名前に判断が引っ張られてしまうというか。


モノに関してはそれで問題ないかもしれないですけど、
同じことがヒトにも起こるから、これは結構厄介です。


いじられキャラで、人気者の人が、
内心ではその立ち位置を良しとしていないかもしれない。
あなたは真面目だものね、という言葉によって、真面目であることを強いられている人もいるかもしれない。

最初は単に目印というか、印象の記憶のためにつけたにすぎなかったレッテルが、
知らないうちにその人そのものより大きな力を持ち始めてしまう。

その人は、ほんとはあなたが貼り付けたそのレッテルとは、全然違う感じの人かもしれない。
でも、一度名前をつけてしまえば、例えそれが間違っていたとしても、その名の方にに判断がひっぱられてしまいます。


コップや傘は、その用途を、名をつけることで限定したって誰も文句は言わないでしょう。

ただ、人はそういうわけにもいかなくて、
だから定期的に、一度その人につけた名前を忘れて、そこにある、ありのままを見なければならないのではないかと、ぼくは思うのです。


名をつけないと生きていけないけれど、
その名に縛られてばかりいると、名付ける意味がないではないですか。