こども大人のメモ

 
 
各世代には各世代ごとの通念のようなものがあって、どこかの世代において正しいことが、どこかの世代においては全く間違っているなんて事態も珍しくはない。

で、そうした通念というのは歳を経るごとに移り変わっていくのが常だった。

それは各世代が、自分たちの持つ通念を唯一絶対として信奉しながらも、そうした通念に対して横槍をいれてくる別の世代の存在があったからだった。

その時は何を言われているかわからないから、聞き流してしまっても、自分がその世代になってみると言われたことの意味がよく分かったという経験は誰もがあると思う。

そうやって通念は、時間差はあれど波及していくものだった。


しかし今は、その横槍をいれることを許さない風潮が少しずつできあがってきているように思う。

中学生にそんなことを言ってもしょうがないとか、小学生にはまだ早いとかいった、当世代以外の人々が横槍をいれる人を揶揄するケースと、

おれたちまだ学生だからそんなこと言われてもねえ、のような当世代が世代を硬直的に考えて思考を停止させるケースとのふたつだ。

こうしたことが起こると、
本来この年代になったならば考えるべきとされていたことが、置き去りにされてしまう。

干渉がないと、各世代間に流れる通念は正しいとされたまま存在し続けることとなり、固定化されていく。

歳をとってといつまでも○○時代の時と同じように物を考える、といったことが可能になってしまう。子どものような大人が生まれてしまう。

横槍は、その時は鬱陶しく感じられても、そうした硬直をほぐしてくれる役割があるように思う。


子どもを子どもとして扱うことも大事だが、必要以上にそういうものとして扱うことは、大人になる機会を奪うことに繋がるのではないか。
 
 

 

世代という言葉で書いたけれど、

個人的な印象としては

今はもう世代なんて広い括りもすでに存在していなくて、

通念は小さなコミュニティ、あるいは個人に帰属しているように見える。