善性などいらぬ

 

性善説の象徴的なエピソードとして、

子どもが井戸に落ちそうになっているのを見たら、どんな悪人でも思わず手を差し伸べてしまうであろう、だから人間は生まれ持っての善なのだと、そんな話がある。

 

最初この話を聞いた時なるほど至極真っ当であると納得したものだったが、よくよく考えると腑に落ちない部分もある。

 

このエピソードだけを切り取って解釈するならば、

善は実践を伴って初めて善である、ということになるだろう。

 

井戸に落ちそうになっている子どもを見て、

ああ危ない、助けなければ、と思う気持ちを持つだけでは、

それだけでは善にはならない。

 

思って、行動する。

そこに初めて善が生まれる。

 

 

ここに私は疑問を感じるのだ。

 

現実には善意で差し出した手が、

より事態を悪化させることがある。

 

仮に、だ。

仮に、事態が悪化する可能性を予想できたとして、

その時はどうするのが正解なのだろうか。

 

それでも手を差し出すのか、

手を引っ込めるのか。

 

同じやり方でもAという人物がやれば上手くいくが、

自分がやるのでは失敗する、ということだってあるだろう。

 

 

助けたいという気持ちに行動が伴わないのなら、

それはただの偽善だという言葉には一定の説得力がある。

 

じゃあ、

気持ちがあっても、何もしない、

あるいは手を引っ込める、それらがベストな選択なのだと迫られる人間がいるとしたならば、

その人にとっての善とは一体何のことになるのか。

助けたい気持ちは飲み込めと?

 

現実には井戸に落ちそうになっている子どもを、

ただただ見過ごすしかない人だっているだろう。

その人の子どもを助けたいと思った気持ちは、果たして偽物といえるのか。

 

正義が必ず勝つのは、

決して正義が正しいからではなく、

正義が強いからである。

なんて嘯く小説があったけど、

それならば弱い正義は正義ではないのか。

 

実践に届かぬ善性は、善ではないのか。

そんなのおかしいじゃないか、と思うのだ。

 

助けたいと思ったその時点で、それは善であるべきではないのか。

 

 

ああでも、助けたいという気持ちを持ちながら、子どもを見殺しにするくらいだったら、自分は善なんかではないという汚名を背負う方がいっそ楽なのかもしれない。

子どもを見殺した後で助けたい気持ちは確かにあったのだと主張することは、殺人犯が殺すつもりはなかったんだと弁明しているのに似ている。

人が死んだならばお前がどう思っていたかなんていうのは、関係がないのだ。

 

 

弱い自分をすり減らして善にすがりつくくらいだったら、

自分は悪だ偽物だと開き直ってしまった方が、楽ちんだ。

 

 

そんな風に考えるなら、

確かに弱い正義は正義じゃないし、

実践を、もっと言えば結果を伴わない善は、善なんかではないのだろう。

 

少なくとも私は、子どもを見殺しにするような善性ならいらないと、そう思う。