入野忠芳を偲ぶ

 

 

時間を定めたわけでもないのに、

一日の何処かで更新をするということすら続けられないのだから、

私はプロフェッショナルは程遠いのだ、と苦々しく思う。

 

 

そんでまあ、

突然なんですけれど、恩師が亡くなった。

 

 

という話を聞いた。

小学生の頃にお世話になったきりの人だったので、

本当は秋ごろに亡くなられていたのだそうだけれど、

知るのは今になった。

 

 

入野忠芳という人であった。

広島では多分それなりに名の知れた人であったと思う。

 

 

ここで先生の経歴を追って説明することもできるのだろうけれど、

そんなことは検索をすればわかることだし、きっと先生から、

「紹介するならそんな角ばったようなことを言わずに、

 きみから見て私がどういう人間だったかを話してくれよ」

なんて言われそうだから、私は入野先生との思い出を話そうと思う。

 

私が先生と出会ったのは、

先生の主催されていた絵画教室に私が通い始めたのがきっかけだった。

当時私は小学校の2年生だった。

 

先生に会って最初の印象は、

左腕がない。だった。

正確には肘から下が、だけど。

 

出会ってしばらくしてから、そのことについて尋ねると、

戦争の時にね、と先生は言った。

幼さゆえに何のデリカシーもなく聞いたというわけではなく、

先生はその質問をすることを失礼だと思っていないだろうなと判断したからだった。

 

 

はっきり先生がそう口にしたわけではないけれど、

左腕がないことはただの個性だと、先生が考えていると思ったからだ。

 

絵画教室で使う鉛筆を削る(鉛筆削りは使わないというのが先生の方針だった)時に、それこそ失礼な話だが、初め私は先生にはそんなことはできないと思った。

 

でも彼は鉛筆を器用に左脇に挟み、そうして右手で鉛筆を削るのだった。

 

先生はそんな私の心中を察したように、

鉛筆を削りきった後に、得意そうな顔をした。

「鉛筆くらい削れるさ」という内容のことを言ったような気もする。

 

小学校の高学年の時、「害児」という悪口が流行ったときに異常な嫌悪感を示していたのはきっと、先生のことが頭の中にあったからなのだろうと、今になって思う。

 

ハンディがあることには違いないだろうが、

それで何かができないと決めつけてはいけないし、

そうするべきではないとその時に学んだのだった。

 

もうひとつとても印象に残っているのは、

先生の書斎に小2のクソガキである私を簡単にいれてくれたことだった。

 

若干8歳である私にとって、大人というのは子どもに踏み込ませてはいけない領域を持つ人間である、というイメージがあった。

 

仕事場なんかはその典型で、

子どもなんかを入れたら何をしでかすか分かったもんじゃないので、

大人は「普通」、そういうところに子どもを立ち入らせたりはしないのだと、そう思っていた。

 

だから、普段絵画教室で私たちが絵を描く隣の部屋に書斎があっても(ふたつの部屋の間に仕切りは存在していなかった)、

そこにバリアーがはられているかの如く、決して自分から立ち入ろうとはしなかった。

 

で、

どういう経緯があったのかまでは忘れてしまったけど、

ある日先生がいとも容易く、私を書斎に招いたのだった。

招くというほど大したことでもなかった。

ちょっとこっちにおいでと、そんな風に私を書斎に呼んでくれたのだった。

 

大人は子どもを管理するものだと、当時はそんな風にも思っていたので(親に雁字搦めにされていたわけでもないから、どんな小学校教育を受けていたのかが知れるが)、基本的に書斎にあるものはなんでも許可なく自由に触っていいとのお達しがあった時は心底驚いた。

 

これは何も私が特別いい子だったからそういう許可が降りたということではなく、教室に通っている子ども全員にその権利が認められていた。

 

私はその許可に甘えて、ラピスラズリのでっかい原石や、三葉虫アンモナイトの化石やら、読んでも一行も理解できない難しい本やらを、一心不乱にべたべたと触って、また眺めていた。

 

中にはもちろん絶対触ってはいけないと言われているものもあって、

それには言われた通り絶対触らなかった。

先生が私たちに置いている信頼を裏切りたくないという思いからであった。

 

調べたら出てくるけれど、「風成00-14」であるとか「風成-虚空03-1」であるとかが、当時普通に書斎兼仕事場に置いてあった。

もちろんこれらは絶対に触ってはいけないものに指定されていたので、触りこそしなかったが、見る分には自由だった。

自分の大切な仕事を、多数の子どもが出入りする場所においておくというのは、正直今の自分にもできることではなかなかないと思うのだけれど、

そこのとこ、先生は実に見事に子どもたちと信頼関係を築いていたのだなと今更ながらに感服する。

 

 

「口を動かす前に手を動かせ」

 

という文言は私を象徴するものとして、昔から存在しているのだが

(あるいは「能書きはいいからさっさとやれ」)、

この絵画教室では本当にそれが顕著だったと思う。

 

絵画教室とはなんだったのか、という疑問が生じるくらい、

通い始めて一年もしないうちに先生と話をするために教室に行くようになり、絵は片手間に描いていた。

 

先生は引き出しが豊富な人だった。

旅先での話や、戦争の話なんかもそうだけれど、

生活の知恵のようなものや、思想を語るなんてこともしていて、

でも、決してなにも押し付けない人だった。

 

先ほどから教訓めいたことをいくつか書いているけど、

その中で先生がはっきりそうなのだと口にしたことはひとつもない。

先生の行動や発言はきっかけにすぎず、あくまで本人の気付きに任せるような、そんな人であった。

 

先生のように信じて放任するということができない性質の私は、

1から10まで説明をしたり面倒を見たりということをついついやってしまうけれど、それが相手のためになるのかと言えば、必ずしもそうではないし、むしろ徹底的に管理されることで感じる息苦しさの方が先に立ってしまうよな、ということも改めて考える。

 

自分が一番されたら嫌なことを、人にやってるなあと。

 

 

 

小学校2年生の途中から、二年半通った教室は、

私が父の仕事の都合で転勤をすることになったのを機にやめることになるのですが、中学生になってから、はたまた大学に入学してから、など節目節目で訪問をしていました。

 

だから今度は、就活をひとつの節目にまた会いに行こうと思っていたのです。会いに行こうと、そう思っていたのです。

明日やろうは馬鹿野郎という、ブログの更新ごときを真っ当に遂行できていない今の私には耳の痛い言葉がありますが、

それでもまさか、そんな明日を夢見ることさえ許されないようなことになっているとは、思いもよりませんでした。

 

癌だったそうです。

最後にお会いしたのは2年前の夏だったので、

もしかするとから先生にはその時から何かしら予兆や覚悟があったのかもしれません。もちろんなかったのかもしれないけれど。

 

またいつでも会えるものだと、勝手にそう思っていたから、

なんというか、ね。せめて葬儀に参列するくらいはしたかったなと思います。

 

話しに聞くだけでは実感が湧かないというのも正直なところで、

なんにせよ一度広島には行かなければと思っているところですが。

 

 

少し前に尊敬できる人があまりいないなんてことを書きましたが、

先生はそうだな、尊び敬うなんてそんな感じではなかったと、そう思います。当時8歳だったあの頃から、こんな大人になりてえと、こんな人に認められるような人間になりたいと思いこそすれ、先生の側からあくまで対等に接してくれたので、そこにはなんというか、尊敬とはまた違った感情がありましたし、今もあり続けています。

 

明日やろうは馬鹿野郎で、

その明日ですらあることは不確かなのだから、

やりたいことやなりたい自分を未来に託すのはもうやめます。

 

なんてことを言うと、

またそうやって難しく、それらしいことを言って逃げるつもりだな、なんて見透かされたことを先生に言われそうなので、

さすがにこればっかりは有言実行せねばなるまいなと思うのです。