ら抜き言葉


最近あまり話題にあがっているのも見なくなったけれど、ら抜き言葉について少し考えてみる。多分2000人くらいの人が同じようなことを考えてると思うけど、他に考えたこともないのでしょうがない。

食べられる→食べれる
みたいな本来なら「ら」が入るべきところを省略したものである。一応。

ら抜き言葉はなんの恨みがあってか親の仇のように批判されることが多いが、ぼくはこいつには一定のメリットがあると思っている。
大体ら抜き言葉が批判されるなら、い抜き言葉も批判されるべきだ。あいつはなぜか見逃されている。見逃されてる。

食べられる
は、にわかの文法知識で解説すると、
食べる、という動詞に「受身、可能、尊敬、自発」の4つの意味を持つ、られる、という助詞がくっついてできたものだ。

なので食べられる単体で見ると、人によって解釈が分かれてしまう。

さすがに自発に解釈する人はいないだろうが、熊か何かに食べられてしまう絵を想像する人もいれば、頑張ればブロッコリーのような木だって食べられるのだと勇気を奮い立たせる文章を考える人もいれば、どうぞぼくのような下賎な者は無視して、そのプリンを食べられてくださいと、そういう尊敬の念を込めた文章を考える人だっているだろう。

その点、らを抜いて食べれるとだけ書いてあれば、それが可能だと一発でわかる。

なぜそうわかるのかはわからないが、
日本で生まれ日本で育ち、そこで醸成された感性がこれは可能なのだと訴えかけてくるのだ。

そういうわけで、読み手の解釈を限定するという意味では、ぼくはら抜き言葉は一定の価値があると思っている。

世の中にはら抜き言葉ら抜き言葉だと指摘する仕事をしている人がいるので、そういう人にこの記事が見つからないことを祈って、終わりとする。