行きもこわけりゃ帰りもこわい
あるものを良いとか悪いとか、美味しいとか不味いとか、
高いとか安いとかいうように判断させているのは、私達の中のなんなのでしょうか。
おそらく何か基準があって、それと同じか上か下かというので判断するんでしょうが、その基準というのは一体どんなふうに決めているのか。
背の高いとか低いとかは平均身長なるものがあるので、
そこを基準に人の背の高い低いを判断するというのは、幾分分かりやすい。
しかし例えば何かの出来事を良いとか悪いとか判断するに至っては、
基準となるものが人によっててんでバラバラで、ある人の言う「良い」が本当に良いことなのか、なんてわかったものではありません。
基準は各個人に帰属していて、その人の価値判断を規定しているということを考えると、基準は行動指針であると言い換えることもできるでしょう。
自分が「良い」と思ったことはやるし、「悪い」と思ったことは避けるであろうからです。(「悪い」と思ったことをあえてやるということもあるでしょうが)
実際に行動に移すか否かは、
その行動がもたらす結果が自身の基準で計って「正しい」もしくは「誤り」から(あるいは「得」もしくは「損」から、かもしれないけれど)、どのくらいの距離があるかによって決めるのではないでしょうか。
正しいにより近ければよし、誤り寄りでも、そこまで誤りそのものに距離が近くなければ、行動に移すこともあるかもしれない。
つまり行動とは、それ単体で存在しているものではなくて、
行動指針→実行するか否かの判断→行動 という順番が示しているように、
行動指針に依存したものです。
と、思ってたんですよ!
そしたら、中には何が正しいか間違いかもわからないけれど、行動だけはしなければならないとかいう自体も世の中には存在しているじゃないですか!
行動しながらそれが正しいのか間違いなのかがわからないというのは、
そらーめちゃくちゃ怖いことなんですよ。だってその行動がどんな結果をもたらすかわからないんですから。
そんなわけで普段自分が”基準”というものにどんだけ依存しているか、というのを思い知りました(小並感) というお話でした。
先日の失恋がうんたら関連に翻弄されていて、更新が遅れてすいませんでした。おやすみなさい。