多様性の檻


一点刻みで合否を判定する方法から、総合的に、多角的に人材を判断して、合否を決めるような受験システムに変えていこうとしている、という話だけれど、それについて全然賛成できないので、とりあえず今思うことを走り書き。


家庭の所得の寡多と、子の学力の間にははっきりと相関関係があり、問題視されている。

では総合的な人材判断によってそれが解消されるのかと言えば、どうにもあやしい。
総合的な判断がどういうものになるのかは知らないけれど、例えば語学力がひとつの基準となった場合、これはお金があればより簡単に身につくスキルなのであって、そうした項目が多岐に渡る場合、所得と学歴との間の相関は、より強いものとなってしまう恐れすらある。


1点刻みの採点方法で偶然で合格する者、偶然不合格になる者、いるだろうが、
本番で実力を出し切れないのであればそれで終わりなのはどこの世界でもそうなのであって、そこに改めてチャンスを作る必要があるのかなあと思う。
社会に出て即戦力になる人材を大学で育てたいんだったら、選抜方法じゃなくて、今のダメ人間製造施設みてえな大学のゆるゆるな中身の方を変えるべきなのではというのが現役大学生の感想。


多様な人材を育てることも、総合的な人材判断に切り替えることの理由として語られることが多いけれど、ペーパーテストに合格した人が皆似たような人間なのかといえば、当然そんなはずはないので、おかしな話に聞こえる。

むしろ教育を施す側としては、あのペーパーテストを超えてくるくらいの実力はあるという前提があった方が、授業もしやすいんじゃないかと思う。


最後の最後に、もっと遡った大前提として、大学は高等教育を施す場なのであって、究極を言うならば、人間性とか全然関係ないと思う。学ぼうという意思があればそれでいいと思う。

んで、それぞれが好きに伸びて、
その好きに伸びた人材がそれぞれに活躍できる場が、用意されていればそれが一番いいと思うのだ。

それが本当に多様性を育て、認めるということであって、
多様性の一部を持て余して使い切れないから、こういう人を育てましょうなんて画一的なスローガンを掲げて、選抜方法を策定し直そうとしてるのではないかと、そんな風に思えてならんのです。


そんなんじゃあ、ますますつまらん人間しか育たなくなるぞ、と思うのです。