そうしなければならないものの積み重ね
ラジオとるぞーで、
昨日23時に集まって、朝の6時半くらいまでずーーーーーーっとラジオとってました。多分使えるのは1時間半あるかどうかだと思います。こんばんは。
その後は8時くらいまで、話す力を鍛えるという意味で、
適当に振られた話題に対してオチのついた話を間を空けずに返すという遊びをやっていました。話題振り自体が、「そういえばお前この間アフリカいった時、なんか九死に一生を得たらしいじゃん」みたいな事実無根のものが多かったので、大嘘でっちあげて適当なつくり話をする会みたいになっていたのですが、これじゃあ本質的な話す力はつかないんじゃないかと結論づけました。やっぱり実体験に基づいた話をするのじゃないと意味がなさそうです。
唯一得たものがあったとすれば、話をするのも難しいけれど、
話題を振るのも同じくらい難しいということでした。
家に帰って、少し休憩してから、
東京藝術大学の文化祭に行きました。
各教室(?)に備え付けられているむき出しの、無骨なステンレスのシンクと蛇口と、そこに漂う油絵の具の匂いがとても懐かしかったです。
昔通っていた絵画教室のことを、少し思い出しました。
文化祭と銘打っているものの、
その実体は大展示会と言ったほうがわかりやすいかもしれません。
彫刻棟や絵画棟など、の各フロア、各部屋に、その棟の冠する名前の学部の生徒達の作品がわーっと展示されていて、それを自由に見て回ることができます。
写真の撮影も基本的には自由でした。
色々な作品を見るために学内を回っていて、
一番驚いたのは、
学食のカツカレーの美味しいことでした。
嘘です。
作品には、
魂入ってんだなあと、思いました。思わされました。そこに一番、驚きました。
ひとつの作品を描く、作る、そこに線を一本いれる、色をのせる、
もう一度削る、重ねる、置く、ずらす。
単に見栄えがその方がいいからというのではなく、
伝えたいことを伝えるためには、そうしなければならないという必然からくる作業の積み重ね。その結果としての作品。
言葉をつらねて文章を綴るのにも、どこか似ていて、当然だけれど、やっぱり何かそこにしっかりと意味があるのだなと、感じました。
岡田悠梨乃さんという方が自身の作品の製作過程を写真におさめたものをファイルして公開していて、そこには最終的にはカンバスには表れてこないところにまで、しっかりと描き込みをしている様子が写っていました。
目に見えているものが全てではないのだと、そこに込められた物全部で作品なのだと、そんな風に思わずにはいられませんでした。
岡田さんは、作品のテーマに合わせて、描くだけでなく、その道具たる絵の具を自作さえするその根性というか、こだわりにも持ちあわせておられて、
毎日言葉をただただ垂れ流しにしているぼくなんかは、本当に恥ずかしい気持ちにさせられたのでした。そこにプライドはないのかと。
藝祭に行くまでは、偉そうに絵を解釈をするのは野暮なことで、絵を見た時の印象、湧いたイメージ、そういったものを漠然と楽しむのが、見る側のすべきことなのだとそう信じていましたが、作品を通じて作者の思いを拾う作業くらいは、是非ともすべきなんじゃないかという風に、考えが変わりました。
藝祭は今週の日曜日までやっております。
入場と作品を見て回るのは無料です。
色んなジャンルの出店があるので、それを目的に行くのも面白いかもしません。
結局行かなかったんですが、個人的には整体師の資格を持っている芸大生にマッサージしてもらえるお店が気になりました。
学祭の出店にしては全体的な料金設定が良心的だなあというのが印象的でした。
今日回った感じだと、芸術系を見るだけでも、というか絵画棟を見るだけでも2,3時間は潰せるんじゃないかというような感じでした。
敷地が音楽系と芸術系に分かれているので、全部回ろうとすると1日かけても足りるかなーくらいの量があるかもしれません。
他にも上野公園の方で学生たちがフリーマケットをやっていたりもします。
ここしばらく新しいインプットをするような経験に乏しい生活を送っていたので、
今日は本当にいい刺激になりました。
それじゃあまた明日。
【追記1】
そういや本当に藝大祭に行く人がありましたら、
是非絵画棟の小さい扇風機のようなものが床にいくつも設置されている部屋の、銀背景に大きく人が描かれた絵の作者の名前を教えていただきたいです。
すごくいいなあと思ったのに、メモするのを忘れていて、とても後悔しています。
【追記2】
すっかり忘れてましたが、
前期の成績発表がありまして、無事必要単位を前期で取り切ることができ、めでたく卒業が確定いたしました。ありがとうございました。