自分は自分、人は人【加筆修正あり】

 

人がどういった主張するかは、ある対象をどの立場から見るかに大きく左右されます。

 

少し前にデヴィ夫人が犬に盲導犬の訓練をすることは、

犬に対するある種の虐待だという主張をしていましたが、

これは彼女の考える「犬の本来のあり方」から盲導犬は外れているという前提があって初めて成り立つ主張です。

 

確かに盲導犬にならずに、老衰で亡くなるまで可愛がってくれる家族のもとで過ごすことができたなら、それはそちらの方が幸せなのかもしれません。

一方で、ペットとして飼われたはいいけれど、家族に世話を放棄され、餓死してしまう可能性もないとは言えません。それだったら、辛い訓練を受けてでも、必要不可欠なパートナーたる盲導犬として、飼い主の側にいたほうがよほど幸せな生活を送れることでしょう。

 

どちらが正しいとか間違っているとかではなくて、

どこに重点を置くかの問題です。

今は両方とも犬主体の視点にたちましたが、

もっと人間側にたって盲導犬がいないと困る人がいる以上、盲導犬は必要だ、という主張だってありえると思います。

 

同じ言語で、同じ空間で、同じ議題で話し合っていると、

あたかも参加者がみな同じ立場で物事を考えているように錯覚してしまいますが、

その実それぞれの立っている場所や見ているもの、見えているものというのは、

全くもってばらばらだと言っていいのではないでしょうか。

 

立場によっては分かり合うことも、

ある立場からある立場へ移り変わることもできましょうが、

逆に立っている位置からして分かり合うことがそもそも不可能である場合もあるでしょう。

 

要は議論が有効な場合と、

そうでない場合があるという話です。

 

個人的に不毛だなと思うのは、相手の主張の中身を問題にしているというよりは、

むしろ、自分の立場が脅かされた(と錯覚する)ことで起こる防衛反応的に議論をふっかけるやつ。

 

誰かの主張は、

必ずしも特定の立ち位置を脅かそうと思ってされているわけではありません。

ただその人がそこに立ったらそういう風にものが見えた、ということを言っているに過ぎない場合の方が多いです。

 

そのような人に対して、

私はあなたと見ているものが違いますと噛み付いていっても、

そこに生産的な議論が生まれるとは思えません。

 

 

自分は自分、人は人、

という考え方は不毛な議論を避ける上では結構大切なものかもしれません。

 

自分の立ち位置を守るために、相手にも自分と同じ立場をとらせようとする人もありますが、それってかえって危険なことなんじゃないかと思ったりもします。

チャーチルが同じ意見の人が2人いればそのどちらか片方は必要ない、みたいな主旨の言葉を残していたように思いますが、それに則るのであれば、同じ意見の人が増えれば増えるほど、その中での1人の価値というのは相対的に小さくなっていきます。

 

生物学的な種の保存では、多様性こそが存続の大きな鍵なのであって、そこに絶対的に正しいものは存在せず、結果として生き残ったものが「正しかった」ということになります。

人の意見とか立場とかも、これに似たようなものではないでしょうか。

 

人と違っている以上、違っているというまさにその一点において価値があるというか。

 

まあ現実には違ってることで迫害されたりもするので、これは詭弁かもしれませんが。

 

何にせよ、

そんなに自分と人が、人が自分と違っていることに目くじら立てなくてもいいんじゃないかと、そういうことが言いたかったのでした。