がんばってたの法則


頑張れねえ、と思ってる人は、
おそらく努力の方法か、対象のどちらかを間違っているだけなのではないかという説。

適当な努力対象の見つけ方なんてもんは、手当たり次第やってみて、これがそうだと実感するしかないのでどうしようもないが、うまく努力する方法には、それなりにやり方というものがある。
そして上手い努力とは、得てして努力ではなかったりする。


以前に会話の形式の話をしたけれど、
努力にもそういう形式があって、自分がどんな型なのかを知るのがとても大切だ。


人生十何年、何十年と生きていれば、あの時は頑張っていたなという瞬間のひとつやふたつ、さすがにあると思う。

まず、それがいつなのか思い出してみる。

そして、何で頑張っていたのかを、探ってみる。



例えば中学生の頃、
ぼくは自分が頭がいいと思っていたので、三年生の夏に部活を引退して塾に入った時、既にトップクラスの学力を有していると確信していた。
入塾後、一番下のクラスに入れられ、納得いかねえと思っていたら、入塾直後の小テストでクラス最下位の点数を取った。

ありえねえ。
と思って、めちゃめちゃに頑張った。

ぼくの場合は、身近に、自分のやっている分野で、自分より優れている人がいる時に、やる気が湧いてくる。


こいつらに負けたくないなあと思う気持ちが、原動力になる。


人に褒められるのが嬉しくて、とか
やっていくうちにできることが増えるのが楽しくて、とか
何かをやりきった後の感じが好きで、とか

原動力は人によって違えど、何かあるはずで、そうした原動力で動いていた時のことを後から振り返ってみれば、それは確かに努力していたと表現する以外にないのだけれど、当時の気持ちをより正確に思い出してみるならば、自分が”頑張ってる”とか”努力をしてる”とかいう意識は希薄だったのではないかと思う。


ぼくの例で言えば、そこには周りの奴らより絶対に頭良くなる、という明確な目標があって、その目標にむかってがむしゃらに進んでいただけだった。

努力のための努力は続かない。
目標があって、それを達成するためにはどうすればよいか、それを試行錯誤する過程こそが努力なのであって、さあ頑張ろうと言って何かを闇雲に頑張ってみることには、あまり意味がないように思う。


だから、努力するために大切なのは、
自分を今の自分より一歩進んだ場所に連れて行ってくれる目標を、自分が自然に立てられるような環境に身を置くことになる。

ぼくだったら、ぼくより強い人がたくさんいるところに身を置くことが、それにあたる。


努力しないで済む環境で努力するのは相当に意志が堅くなければ難しいけれど、
努力せざるを得ない状況に身をおけば、あとは自然と体がついてくるもんだ。

陳腐な結論だけど、
努力しやすい環境に飛び込んでいくのも、案外難しかったりする。