ルールと異常


ルールとは、
何かイレギュラーなことが起きた時に、
それに対してどう対処するかを定めたものです。いつでも事態を判断できる偉い人が動けるわけではないので、誰もがイレギュラーな事態に判断を下せるようにするために、ルールを定めます。

またルールには、それに従わせることによって、そもそものイレギュラーの発生の可能性を排除して、集団を均質化させる力もあります。


例えば遅刻というイレギュラーに対して、いちいちその事情を聞いてこれは許すとか、これは許さないとかをしていたんじゃ、その許可不許可を判断できる人が限られてしまうために、如何なる理由であっても遅刻をしてはいけないという、ルールを作る。

そして、
そのルールの定められた集団に所属する人は、ルールを守っている間に、もとは時間にルーズであった人も、もとより時間には厳しかった人も、遅刻をしない人間として均質化されていきます。


最初はイレギュラーに対処するために設置されたルールは、次第に個人間にあるでこぼこを埋めるように働き、均質化によってイレギュラーそのものを起こさない環境を作るように機能し始めるのです。


と、考えているんですけど、
その異常を省くために設けられ、機能しているルールが、それでは対処しきれないさらなる異常によって塗り替えられていく様をみると、普段は毅然とした顔で侵し難い雰囲気を持っているルールの、いかに脆いものかを教えてくれるような気がします。


剣道界には今もご存命ですけど、池田さんという方がいて、この人がその昔あまりにも強くて試合をぽんぽん終わらせて、大会をすぐに終わらせてしまうものだから、日本で行われる剣道の団体戦で、勝ち抜き方式を採用する大会の数が減ったと言われています。


もっとわかりやすいとこで言えば少年法でしょうか。もとは軽犯罪と呼ばれるようなものを犯した未来ある、更生の余地ある若者を、保護するためにできたであろう少年法も、大人の度肝を抜くような重犯罪を犯す子どもがでてきてからは、その存在が疑問視されたり、実際に改正を余儀なくされたりしています。


小さな異常を省き、私たちの生活を守るのには、ルールは多分向いているのでしょうけど、それで捉えきれないほどの大きな異常が現れた時、ルールに頼れなくなった私たちは、それらにどう立ち向かっていけばいいのでしょうか。