服と美食


男性用の服は何故あんなに高いのか。
服だけではない、靴も、生きるためのハードルも高い。

そしてぼくは夏になるといつもワンピースが羨ましいと思う。なんだあの上から被るだけで上下が完成するお手軽衣服。

紳士服でワンピースのような役割を果たすものを考えるとオーバーオール以外にないが、いくらファッションセンスの欠片もないぼくでもあれはないなと思う。そもそもオーバーオールが紳士服と呼んで良いものなかも怪しい。


ファッションセンスもオシャレ意識もないぼくだから、大学に入学してからというもの、ほとんど服にお金を使っていない。最低限の清潔感は保っているはずだが、実家に帰ると母から憐れみの目を向けられ、そのまま服屋に連行されるということが何度かあった。

妹には何も言われないので、最低限度の若者受けはしているか、妹もぼくと似た意識を持っているかのどちらかだろう。


世の中にはバイト代を全て服につぎ込む猛者もいると聞く。では、ぼくが服に金を使わず何に使っていたかというと、それは主に、ご飯と本だ。


美味しいものを食べるためには金に糸目をつけたりつけなかったりしてきた。

本は安いと思ってたくさん買っていると、いつの間にかものすごい出費になっていたり、読み終わりもしない本が家に溢れかえったりして大変なことになっている。

たまに積んである本を見て途方に暮れることがあるが、自分は読書家ではなく本の収集家なのだと思うことで気持ちに折り合いをつけることに成功した。


とは言え使っている金額は、ご飯を100とするなら本は2くらいのものである。


初めは吉野家で満足していたぼくも(今でも充分満足できる)、美味しいものを食べるうちに、少しは舌が学習をして、更に美味しいものを、更に美味しいものを、と欲張りになってくる。


そこである壁にぶつかった。


美味しい料理を追い求めていると、否が応でも高級店にぶつかることもある。
そこに着ていく服を持ち合わせていないのだ。

いくら服装に頓着がないとは言え、店の雰囲気を損ねるのには罪悪感を覚えるし、いくら美味しいものを食べたいとはいえ、恥そのもののような己の存在に更に恥を上塗りしてまで決行する勇気はない。


誰が言ったかは知らないが、学問というのはひとつの大きな山で、数学だの哲学だの、化学だの物理、生物、経済学だのという分野は山を登るルートの違いに過ぎず、どの分野を究めても(つまり山を登りきってしまえば)見える景色は同じなのだという格言がある。

これは相当に疑わしいが(そもそも誰が学問を究めたというのか)、突き詰めていけばいくほど、限られた分野だけで課題解決しようとするのは不可能で、学際的にならざるを得ないのは確かだ。多分。


何が言いたいのかと言うと、その原理が今回のことにも適用できるのではないかということだ。
学問世界で山を登り切らんとすると、他の学問分野の力を借りなければならないという問題にぶつかるように、現実世界でヒエラルキーと言う名の山の頂点を目指そうとすると、良い格好をしなければならないという問題に必ずぶつかる可能性がある。

美味しいものを食べようとすると、良い格好をせねばならず、もしかするとぼくがモテないのも良い格好をしていないことに原因があるのかもしれない。


社会に出たら体裁もあるので、大人しく初任給は衣服に使おうと思った。